親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

(21)1988年~2010年までの軍政の動き

 今回はミャンマーの軍政が成り立ちや軍政下での経済、教育などについて解説したい。

社会主義から軍事政権へ

 1988年、ビルマ国軍参謀総長だったソウ・マウン司令官によるクーデターは社会主義政権が崩壊した形で起こったため、一見何も準備されていなかったように思われていた。しかし、背景には前政権下の影響があり、ソウ・マウン司令官も傀儡に過ぎなかった。ネ・ウィン将軍の右腕で、秘密警察である軍情報局のキン・ニュン大佐とソウ・マウン司令官は師弟関係であり、彼がソウ・マウン司令官にあらゆる命令を指示し、裏で実権を握っていた。
 ソウ・マウン司令官は、ある種真面目な軍人気質だったため「選挙後は民政移管する」と発表したものの、1990年の総選挙でNLDに大敗すると約束は反故にされ、政権移譲を拒否。その後は、キン・ニュン大佐の管理に置かれ軟禁されると、タン・シュエ司令官に政権を譲った。その後、タン・シュエ司令官が現在まで続く軍政の基礎を作ったといっても過言ではない。

標的にされたNLD

 デモ隊の弾圧の仕方は、市民が疲れるまで待って、軍支持者や刑務所にいる受刑者を市民に潜り込ませ、あたかも市民が“暴れている”かのような状況を演出し、一気に潰しにかかるという方法。国際世論を意識した格好だが、3~4,000人の市民が犠牲となり、数千人が拘束された。毎日のように連行しては虐待を繰り返し、長年に渡って刑罰を与えた。NLDの党員は特に目をつけられ、二度と公に出られないよう親族までも取り締まり、社会的な制裁も科した。軍政は、ミャンマー人の性格をよく理解していたため、軍政に協力的な政党については恩赦を与え、NLDのみに標的を絞った。
 1993年から2008年までNLDは選挙に参加せず、08年には全議席の4分の1を占める憲法が成立させられる。2010年には、軍政の翼賛団体である連邦団結発展党(USDP)が発足。軍政のための社会活動を行い、NLDを潰すために仕立てられた民間人同士の争いという縮図にさせた。しかし、2010年の総選挙では、NLDはボイコットを決定し、同年5月に解党した。

軍政権内の権力闘争

 軍政内部でも闘争があった。キン・ニュン大佐が属していた軍情報局は権力の集中から反感を買い、保守派との政争が勃発。軍情報局の3番目の地位にいた高官が2度暗殺されかけ、ヘリの墜落事故で亡くなるなど血なまぐさい事件が続く。結局、軍情報局は市民や他の軍部にも嫌われ、キン・ニュン大佐は首相まで上り詰めたが解任。「健康上の理由」として引退させられ、軟禁させられた。そして、軍情報局は解体させられ、関係者は長期間拘束されるという結末を迎えた。

軍政下での経済活動

 軍政による経済は多くが資源を中心とした利権ビジネスに特化していた。少数民族武装勢力と和解し、彼らに都市部での事業権利を与える一方、地方でアヘン栽培をさせ、密輸を行い利益を貪る。アヘン栽培は彼らの大きな資金源に成長した。さらに森林伐採、宝石や鉱山採掘、ガス、漁業、国境貿易などの利権を利用し、中国の援助を受けながら、インフラ整備と行った。中国への見返りには、資源、ガス、石油、ダム建設および電力事業利権。ネピドーにも中国の投資が入っているが、軍政は見返りとして自動車の輸入許可証を与え、インフラを整え、住宅を建設した。ちなみに自動車の輸入許可証は日本円で1~2,000万円とも言われている。そうした利権ビジネスは競争を生み出さないまま歪な成長を遂げ、富めるものは富み、貧しいものは永遠に貧しいという構図を際立たせていった。まさに腐敗した経済としか言いようがない。

弾圧される教育と不安な社会構造

 教育についてもねじ曲げられてしまった。軍政は大学生を恐れ、何度も強制的に休校させては、複数人での集会を禁ずるなど弾圧していった。なかなか人が集まりにくくなるよう大学を都市部から遠い場所に置き、ときには3年間で卒業させることも。教育環境を壊すことで意図的に社会不安を作り出す。社会が不安定になればなるほど、市民同士も互いに信用できないような状況を生み出していった。


 このようなことが軍政下では起こってきた。あまり日本の方は体験したことがないと思うが、現実として起きてきたことである。こうした事情を理解してもらえればと心から願っている。

(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている