親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

第1回「クーデター発生から2日目の思い」

 クーデター翌日の2月2日、街中は平穏でまるで何事もなかったかのような雰囲気だった。軍政下という異常事態を受け、不気味なほど静かで、ミャンマー人の私でさえ信じ難い感覚となり、日本人の皆様には説明できないほどの暗い気持ちになっていた。

 ミャンマー全体が私と同じような沈んだ気持ちを抱え、2日目を迎えているだろう。電話はつながるので知人からの連絡はあるが、気落ちした会話ばかり。これからミャンマーはどこに向かって行くのだろうか……。私は2度目のクーデター経験だったが、年齢も感情も感覚も今回はまったく違っていた。

▲ミャンマー国軍による全権掌握から2日目のこの日、ヤンゴン市内の人民公園では国軍支持者が集会を行っていた

 1988年のクーデター当時、私はヤンゴン大学の寮で寝泊りしていた。23歳、大学生でありながら政府への民主化要求運動に参加し、クーデターが起きる予感もあって、ヤンゴンからの逃亡も想定していた。独立前のアウン・サン将軍が実行したように皆で国境まで逃げ、外国の支援を受けて戦うつもりで計画を立てていた。若者たちの夢物語であり、理想に燃えていたのは確かであったが、私のミャンマー民主化運動は志し半ばで終わってしまった。

 たまたま仕事帰りの父親と自宅で遭遇し、怒鳴られて部屋に閉じ込められ、外から鍵を閉められたのが運命の分かれ道だった。もし、私が大学の寮に戻り、復学していたら今の自分はいない。死んでいるか、海外亡命しているか、刑務所入りか、果てはNLD政治家のいずれかになっているに違いない。
 当時私は父親に恨みを抱いていた。クーデターが起こり、銃声があちこちから聞こえ、多くの学生が亡くなった。友人も連絡が途絶え、逃亡した人、亡くなった人もいる。今思えば、父親の行動はミャンマーを熟知していたからこその愛情であり、本気で政治を勉強したいのであれば海外で学ぶように勧められ、25歳で日本留学を決めた。

 それからミャンマーに帰国して16年目になり、失われた年月を思い出している。5年前の民主化政権の誕生には、無上の喜びを感じた。しかし、今の自分は日本人の皆様が日常的に体験しているような光景、環境とはまったく違う。もしかしたら明治維新の時代に生きている日本人の感覚と似ているのではないかと勝手に思い込んでいて、夜明けを夢見て、坂本龍馬のような理想の社会を想像している。現実は厳しいだろうが、夢だから見続けることに意味があり、自分ができる範囲で活動に参加し行動する決意である。具体策はなくても、皆と心を一つにし、反対運動を続けるだろう。

▲2016年3月、NLD文民政権が誕生。
各紙ともティン・チョー大統領(当時)の宣誓式を報じていた。

 ミャンマーのクーデターの歴史について簡単に触れたい。まず1962年(正確には1958年。クーデターと見なさない政権譲渡)のクーデターは、行政機構の低下と少数民族武装勢力との衝突もあって、ミャンマー統一への期待感が高まっていた時期に起きたものだった。その後、ビルマ社会主義計画党によってある程度統制は進んだものの、経済政策は見事に失敗を繰り返した。そして経済は疲弊、ミャンマーは最貧国となり、1988年の民主化運動が勃発し、クーデターが起きた。無政府状態の国軍の武力による鎮圧が続き、内戦さながらの展開となった。

 しかし、今回のクーデターは全く違っており、そもそも国家に混乱もなければ、国民全体から支持された民主主義の政権が誕生しようとしていた。国軍のたった一人の人間(ミン・アウン・フライン国軍総司令官)の罠にかけられ、悔しい思いは尽きない。しかし、アウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相が訴える通り、国軍の罠にハメられないよう静かな軍事政権への反対運動は続いている。平穏かつ不気味な雰囲気でもあるが、「国軍を打倒してやる」という心の叫びが聞こえてくるようだ。(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている