親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

(13)民主化後、国軍幹部は処罰されるべきだった
(本稿は2021年2月執筆です)

 クーデターから16日目、今日は大使館などを回ってきた。G-Z世代のデモ隊からは自由民主主義を取り戻したいという強い気持ちが伝わり、結果はどうであれ団結しながら行動しているのはたくましく映る。そんな彼らを見ながら、なぜクーデターが起きてしまったのかをあらためて考えさせられた。それは我々世代の責任でもあると感じずにはいられなかった。

中国大使館前
日本大使館前
イギリス大使館前
インド大使館前

 まずはミャンマーの近代史から振り返りたい。イギリスから独立後、ミャンマーは文民政権で民主主義路線となったが、民族争いは絶えることなく、それはすべて軍に委ねられていた。それを指導していたのがネ・ウィン将軍であり、彼は女性やバクチが好きで、正義感もなく、執念深い人間だった。

 1948年にビルマ独立とともに初代首相となるウー・ヌ政権が誕生したものの、国民党軍、少数民族武装勢力、ビルマ共産党などの勢力争いによる内紛が続いた1958年、ネ・ウィン将軍が間隙を縫う形で実権を掌握。その後、総選挙を実施し、ウー・ヌ政権が再び誕生したものの、ネ・ウィン将軍は1962年にクーデターを起こし軍政を取り戻した。

 当時、多くの大学生は反軍事政権のデモ運動を起こしたが、国軍は武力行使でこれを鎮圧、多くの学生が犠牲となった。こうした弾圧に対して、ネ・ウィン将軍は軍幹部を罷免する形で責任を逃れ、ビルマ式社会主義が誕生したという経緯がある。

 ミャンマーの運命は、そこから彷徨うこととなった。ネ・ウィン将軍は何よりも自分自身の保身を第一に考え、信用のある部下を軍警察のトップに置き、内部統制を図った。さらにほとんどの総司令官を将軍に逆らうことができない人物で構成した。つまりそれは国のためではなく、自分の身の安全のためだった。

 8888年の反軍事政権への抗議デモで、何千人もの民衆が犠牲になったのもそうした背景がある。軍幹部は自ずと民主化を排除するようになり、アウン・サン・スー・チーさんの革命によって復讐されることを一番恐れていた。ただし、スー・チーさんは当初から「国民と軍との間の憎みは解消すべきであり、復讐は歴史を汚すだけ。決して後戻りはしない」と断言していた。

 スー・チーさんの政権誕生以降、市民を虐殺した軍幹部が処罰されることはなかった。NLDの党員たちも国軍幹部を裁判にかけたいと思っていたが、スー・チーさんの慈悲深さがそれを許すことはなかった。

 我々の世代が本来すべきだったことは、国軍幹部を裁判にかけて処罰を下すことだったのだ。それができなかったことが、今の若者たちへの負の遺産となって重くのしかかっており、我々は反省しなければならないと痛感している。

(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている