親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

第4回「なぜアウン・サン・スー・チー女史は国民に支持されるのか」

 日本の皆さんは国民的人気のアウン・サン・スー・チーさんをどう思っているのだろうか。ひょっとしたらメディアに報道されているぐらいかもしれない。ただ、スー・チーさんの人気の理由を説明する前に、まずミャンマー人を理解するために不可欠である仏教から伝える必要があると思う。

 我々上座部仏教徒は、前世、現世、来世への輪廻を心の底から信じている。仏陀を信仰し、教義に従い、道理に沿いながら"無"(悟り)になるための修行を繰り返す。無神論者は死ねば無になると解釈するようだが、ミャンマー人は輪廻が止まることで"無"の存在になれると考えている。一方、人間の欲望は輪廻のための"エネルギー"となり、つまり欲望を抑える、欲望をなくすことが求められる。ミャンマー人は産まれながらそうした教えに従い、物心がついたときには欲望を抑えるように育てられてきた。
 物質よりも精神が大事だという価値観、生き方があり、自分という存在でさえ肉体を借りて現世に現れていると信じている。
 そうしたミャンマー人の心、生き方が背景にあり、スー・チーさんが支持されている理由は2点あると思っている。

2019年に来日した際のスー・チー氏

アウン・サン将軍の娘であること
 スー・チーさんは建国の父アウン・サン将軍の娘だが、ただのお嬢様ではない。まずは家系とアウン・サン将軍の人格についてに触れたい。
 祖父はボー・ミン・ヤウンという歴史上の人物であり、王朝時代の英雄だった。その子であり、スー・チーさんの父であるアウン・サン将軍は純血のビルマ人で飾り気のない、優しい方で、思いやりのある人格者。
 アウン・サン将軍の演説内容を今聞いても常に国のため、民衆のためが重要であると訴え、利己というものがまったくない。将軍になっても洋服は3着のみ、映画館に行ってもお金がないので一番安い畳が敷かれたところで"隠れて”観賞したり、上着を着ていない人に自分のものを差し上げ、「貴方に上着がないことも、私に責任がある」と語ったという。他人に対する思いやりにあふれ、人に迷惑をかけないように生きていた。自己の欲望がなく、自分を犠牲にし、民衆のためを思うミャンマー人の理想的な生き方を実践されていたのだ。
 その後、他界され、スー・チーさんは幼い頃から母の徹底した教育下で、ミャンマー人女性のあるべき姿勢、宗教的な生き方を身に付けていった。父の遺伝ともいえる頑固さはあるものの、人に対する思いやりと欲望のなさもほとんど同じ。正義と信念のために自己犠牲を惜しまず、仏教の道理に定められた教義に従う生き方を実践してきた。だからこそスー・チーさんはアウン・サン将軍のように尊敬できる方として敬愛されている。

スー・チーさんの政治信念
 ミャンマーの歴史は民族間の争いの歴史といえる。互いに信用せず、権力争いを続けてきた。そして、教育も浸透せず、社会に対する知識も十分とはいえず、そのせいで政治への興味も低かった。
 植民地だったこともあり、政治は論理よりも感情論が優先され、互いの信頼関係を構築しづらかった。多民族の文化、社会、政治への感覚の違いが国家統一の足かせとなっている。そこに軍が政治に介入し、より統制が取れなくなった。軍事政権が長く続き、政治体制も整わず、知見のある政治家が育成されないまま、1988年のクーデターに至った。
 たまたまスー・チーさんは、母の看病のためにミャンマーにいたことがきっかけとなり、歴史の1ページを開くこととなった。ただ、最初はスー・チーさんの兄であるアウン・サン・ウーさんに対して政界への参入が打診されたが、彼はアメリカ人で連絡ができないこと、政治に関心がないということで諦めた。そこに偶然スー・チーさんがミャンマーにいることがきっかけとなり、多くの方の要請を受け、民主化革命運動に参加。それから徐々に責任感の強い行動が評価を受け、市民の期待が高まっていった。スー・チーさんは父から受け継いだ責任感、信念を貫く強さがあり、ミャンマーの学生、一般市民の心を動かし、リーダーとして頼れる存在になっていった。
 過去の政治家と違って、信念があり、国のため、民衆のために自分を犠牲にしても闘う人物であることがわかった。正義に反すれば、いかなることも妥協せずに道理を貫き、もはやそれは政治家、革命家を超えて、もはや宗教に近い存在。彼女の言動がミャンマー人の心を捉え、信仰に近いほどの心の支えとなっていった。だからこそスー・チーさんは軍にとって最も恐れる存在なのだ。
 スー・チーさんはミャンマーの歴史上、唯一無二の女王。それは仏教の教えに従うミャンマー人の理想的な人物であり、ミャンマー人の心の在り方そのものと表現しても過言ではない。

(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている