親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

第6回「私が為すべき役目とは」

 人生は短い。生きているあいだに、何を生きがいにしていくのか。多くの人もそんな風に考えたことがあるのではないだろうか。

 私は運が良いと気づいたのは12歳の時。たまたま仏教の慣習でもある出家をすることになった。ミャンマーでは男性であれば、必ず一生に一度は出家するという慣しがあって、私は家の近くのお寺に行き、髪を剃り、1か月間の修行をすることになった。そこで学んだのは「今という瞬間を、何のために生きるのか」と自問することだった。そうしたことを深く考えたことはなく、意味もあまり理解していなかったと思う。そもそも遊び以外に深く考える必要もなかった。この言葉はずっと心のどこかに引っかかりながら、二度目の出家をすることとなった。

(C)日本アセアンセンター

 ちなみに当時は小中高と学校の試験が終わると、3か月間の休みがあり、1か月ほど出家することが一般的だった。二度目の出家の場所となった寺は、家から4~5時間かかる郊外で、しかも村の墓地の隣というロケーション。村の一番奥にあって、当然電気もなく、毎晩瞑想して早く寝るしかなかった。瞑想すればするほど、側に誰かがいるような感じがして死ぬほど怖かったという記憶がある。まさにホラー映画さながらの雰囲気だった。

 そうした何かに怯える日々が続き、常に周囲に霊のようなものがいる感じがあったのだが、図らずもそれが気づきを与えてくれるきっかけとなった。瞑想を繰り返すたびに、いつのまにか"生きる"という感覚を理解するに至った。そして、自分のためではなく、"誰かのため"に生きることが大切であると気づき、喜びを感じた。

 大学生になると近所のお金のない中高生を集めて、勉強を無償で教えた。いわばボランティア活動だったが、社会主義下では、基本的に物資は配給制度だったので金儲けをすることは悪として見られていた。今では信じ難いが、1988年のクーデターが起こり、軍政下の市場経済の異常さを理解できていなかったし、他国の情報もなく、いわば閉ざされた闇の世界だった。だからこそ外の世界を夢見て、そこから飛び出したいと考え、日本に渡ったのだ。その縁があり、日本は今や自分にとっての第ニの故郷となっている。

 自分にできることは恩返ししかない。具体的な方法はまだ明確ではないが、自分が身に付けた日本語能力と国際感覚を生かし、"誰かのため"になることをやっていく心づもりである。可能な限り、市民と共に生きることが大切であると思っている。

(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている