【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

民主活動家 ウィン・チョウ マティダ夫妻(P.2)

軍が街中で学生を襲撃
隣国への逃亡を迫られる

ウィン・チョウ 私はヤンゴン工科大学を卒業して大学院に進学していました。8888民主化運動に至る原因は種々あるのですが、騒動拡大の引き金となったのは、88年3月13日に、ヤンゴン工科大学の学生活動家であるポー・モウが軍によって射殺されたことです。彼は、私の友人でした。
 当時は今ほど情報伝達の手段が発達していませんから、私が彼の死を知ったのは16日のことです。すでにヤンゴン工科大学では抗議活動が巻き起こっていたのですが、私はその日アルバイトがあり、抗議活動には参加できませんでした。
 しかし、仕事の帰りに通ったインヤー湖で、恐ろしい光景を目にしたのです。ヤンゴン大学の学生が、抗議活動の中心地であったヤンゴン工科大学へ向けて集団で行進していたのですが、インヤー湖を通過するところで軍が彼らを襲撃したのです。学生たちは逃げ惑い、軍人は湖上まで追い詰めてひたすらに殴打していました。私はそれを見て、民主化運動に専念することを決心したのです。
 アルバイトを辞めて活動を続けましたが、軍による弾圧は日に日に強くなり、私は6月に逮捕されました。その後釈放されましたが、身の危険を感じたため一時的にインドやタイに避難を余儀なくされました。のちに、武器を持って戦うために国に帰ろうとしたのですが、母に強く反対され、「このまま外国へ逃げてほしい」と懇願されました。私は、母の思いを裏切ることはできませんでした。

永杉 短期的に隣国へ逃げることはできても、日本に渡ることは難しかったのではないでしょうか。

ウィン・チョウ 当時、日本の支援でヤンゴン国際空港の建設が進められていました。私は運動に専念する前まで、そこでアルバイトをしていたんです。職場には日本人が多く、私も日本語を学び始めていたのですが、そこで日本語を教えてくれていた先生が、私の窮状を知って日本に渡る手筈を整えてくれたのです。

永杉 マティダさんは、先程名前が上がったヤンゴン大学に在籍されていたと聞いています。

マティダ 8888民主化運動には、ヤンゴン大学の学生として抗議活動に参加しました。私は、叔父や兄が民主化運動に関わって何度も逮捕されていたので、軍から目をつけられていたのでしょう。88年の9月と12月に2回拘束されました。その後、私も身の危険を感じて、しばらくの間インドに避難していた時期があります。
 しかし、父の体の具合が思わしくなく、国に戻ることにしました。再び逮捕されることも覚悟していましたが、その時は何もありませんでした。父は、帰国後すぐに亡くなりました。心労もあったと思います。叔父が刑務所に入ったままで面会すら許されない状態でしたから。
 父が亡くなった後、そのままヤンゴンに留まるのは危険だと判断しました。軍からは「すぐにでも刑務所に入れてやる」と脅されていたため、海外は無理でも地方に逃げようと考えました。それで、ラカイン州の教員募集などに応募をしてみましたが、返事すら来ない。八方塞がりになっていたとき、子どもの頃からお世話になっていた日本人が助け舟を出してくれたのです。
 彼は日本の大手電機メーカーの海外部長で、8年ほどミャンマーに駐在している方だったのですが、私のことを心配して急に電話をかけてきてくれました。そこで現状を説明すると、保証人を買って出てくれて、日本大使館にビザ発給を掛け合ってくれました。

永杉 ご夫妻ともに、日本人との偶然の出会いが日本へ渡る道につながったのですね。それでは、日本に渡った後のことを教えてください。

▲講演会でミャンマー市民の困難な現状を訴えている

ミャンマーの国内避難民は180万人以上に