【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

民主活動家 ウィン・チョウ マティダ夫妻

今回のテーマ
国外から祖国を叱咤・支援する在日ミャンマー人夫妻

ウィン・チョウ マティダ夫妻
[Win Kyaw & Ma Thi Da]

夫ウィン・チョウは1965年ヤンゴン生まれで、ヤンゴン工科大学大学院在学中の88年に民主化運動に参加。軍の弾圧を受けてインドやタイに逃れた後、日本への渡航を果たす。
妻マティダは1971年ヤンゴン生まれで、ヤンゴン大学在学中の88年に民主化運動に参加。軍による2度の拘束を経て日本へ渡る。訪日後に結婚した二人は、祖国の民主化運動や、在日ミャンマー人への支援など、多岐にわたる活動を続けている。

親族は「三十人の志士」
民主化活動が身近な幼少期

永杉 今回は、ウィン・チョウさん、マティダさんご夫妻に鼎談形式でお話をうかがいます。お二人はそれぞれ1988年の民主化運動(8888民主化運動)に身を投じ、軍による弾圧から逃れて日本に渡られた経歴をお持ちです。今も祖国の民主化運動に参加し、在日ミャンマー人へのサポートも引き受けるなど、精力的に活動を続けていらっしゃいます。お二人の現在の活動は大手メディアがスポットをあてていますので、ここではお二人の半生を中心にお話をお聞きしたいと思います。まず、8888民主化運動に参加する以前の生い立ちについて教えてください。

ウィン・チョウ 私は1965年、ヤンゴンで生まれました。父は教育省の役人で、教科書の作成に携わっていました。休日には、父が仕事を通じて知り合った大学教授が家に集まり、国の問題点などを秘密裏に話し合っていたことを覚えています。
 国を変えるため、国民が蜂起するという姿を初めて目にしたのは、74年のウ・タン事件のことです。自宅の近くにあったヤンゴン大学に学生が集まって座り込みをしていたのですが、私は母に頼んで弁当を作ってもらい、座り込みに参加したことを覚えています。当時は「大学生のお兄さんたちの近くにいられる」くらいの気持ちでしたが、彼らの国を変えようとする熱気は感じ取っていました。

永杉 ウ・タン事件といえば、元国連事務総長ウ・タン氏の死去に伴う追悼を、当時のネ・ウィン政権が拒否したことに始まる民主化運動ですね。お父上やその友人が国を憂う話を聞いて育ち、小学生時代から民主化運動に触れていたという経歴が後の活動につながったのでしょう。マティダさんはどのような幼少期だったのでしょうか。

マティダ 私の家系も代々、国を変えるための活動に熱心な人たちでした。祖父はボ・ミン・ガウンといい、ビルマ独立を目指してアウンサン将軍とともに日本へ渡り、軍事訓練を受けた30人のうちの一人です。
 74年のウ・タン事件当時、私は3歳くらいでしたから記憶はありません。しかし、一番上の兄は学生運動のリーダーとして拘束され、叔父も反政府活動を行ったとして逮捕されたと聞いています。

永杉 日本に渡った30人は、「アウンサン将軍と三十人の志士」として非常に有名で、同名の本も出版されています。お祖父様がその一人だったとは。

ウィン・チョウ 実は、私の大叔父であるボ・レイヤーも30人のうちの一人なのです。それぞれの親族が「三十人の志士」の一人だということは結婚後に知ったので、本当に驚きました。

永杉 お互いの大叔父と祖父がビルマの現状を憂いて日本に渡り、その大甥と孫も同じく祖国を憂いて日本に渡りそこで結婚をするというのは、まるで物語のようです。そのような親族と背景を持つお二人が民主化運動に身を捧げ続けることは、必然なのかもしれません。
 それでは、お二人の人生を大きく変えることになった8888民主化活動について教えてください。

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