【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

日本財団会長・ミャンマー国民和解担当日本政府代表 笹川陽平 氏(2/3)

永杉 〝人道的停戦〟とは、私は今まで耳にしたことがなかったのですが、なぜこのような名称にしたのでしょうか。

笹川 私はこれまでにテイン・セイン政権下とスー・チー政権下で、国軍と少数民族の停戦を仲介してきました。しかし停戦という概念は、実はたいへん難しいのです。停戦内容の細部について、言葉の解釈の問題でトラブルになることもあるのです。そこで〝人道的停戦〟という言葉なら、避難民を含めた住民の食糧支援や衣服、それに診療所や学校建設まで住民のための人道活動が可能になるのではないかと考え、この言葉を使いました。今回の件は、世界で初めて「紛争地における、人道的立場からの停戦」ではないでしょうか。それを定着させたいという思いでいます。

永杉 国軍がラカイン州内への交通を封鎖したことで、市民が食料や医薬品不足に直面していましたが、停戦によって困難が解消されることが期待されます。

笹川 ラカイン州は冬になると寒くなる地域もありますし、食料のほか衣料品も必要という声があります。今その支援の準備をしているところです。できるだけ早く届けたいと思っています。

▲町中の老若男女にも片っ端から話を聞く(2020年11月)
東京大空襲を生き延び、草を食べた過酷な原体験

永杉 今回の停戦合意に対して、ラカイン州に住んでいるロヒンギャをはじめとした住民は賛成していますが、在日ミャンマー人の一部からは反対意見も出ています。どちらかというとカレン族やチン族、シャン族といった少数民族の人々が、停戦に不安を感じているようです。ラカイン州で戦闘が中止になったら、国軍がその戦力で自分たちの故郷を襲撃してくるのではないかと話す人もいます。国の各所で内戦をしている状況で、一か所だけ停戦を合意しても全体の火を鎮めるのは難しいのではないでしょうか?

笹川 まず成功例を作っていくのが大事なことだと思っています。ミャンマーにはたくさんの少数民族が50年近くに渡って紛争を続けてきました。これらがひとつにまとまっていればもっと早く平和が訪れたと思いますが、歴史的背景を見ますとなかなか難しいものがあります。それでも現実のところ、まず紛争による被害者が一人でも二人でも減っていくよう努力する以外に方法はないと思っています。

永杉 日本財団はミャンマー南東地域カレン州のレイ・ケイ・コー村でも、紛争からの復興支援事業を行っています。

笹川 レイ・ケイ・コーでも、被害者はいつも無辜の人たちです。私は6歳のときに東京大空襲に遭っていますが、たった2時間半で10万8000人もの人々が亡くなり、数十万人が傷つき、数十万戸の家が焼かれました。私に言わせればジェノサイド(大量虐殺)です。私は母親とともに生き残って、それからは食糧難で草を茹でて食べたり、栄養失調になって体中におできがたくさんできて、たかって来る蠅を払うのに苦労した体験があります。だからこそ、同じような子供たちを一人でも助けたい、無辜の市民により安全に安心して暮らしてもらいたいという思いから支援を続けています。思想とか政治は関係ないのです。

永杉 2015年にヤンゴンで笹川さんにインタビューをお願いしましたが、今までにミャンマーへは150回も足を運ばれているそうですね。なぜでしょうか。

笹川 1970年代から関わりはじめました。ハンセン病の撲滅運動が最初です。それから米や油、医薬品などの支援、学校も辺境地域に750校ほどつくりました。

永杉 スー・チー氏ともたびたび会談をされていますが、どのようなお話が印象に残っていますか。

笹川 彼女の父親であるアウンサン将軍の軍刀を「日本できれいに研いでほしい」と預かりました。この軍刀は、彼の唯一にして最大の宝物だったそうです。美しく完成しましたので一日も早く彼女に届けたいものです。

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