【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

歯科医師 松本敏秀 氏

今回のテーマ
ミャンマーとタイで歯科ボランティアを行う歯科医師

松本敏秀 氏[Matsumoto Toshihide]

1957年北九州市八幡西区(旧八幡市)生まれ。九州大学歯学部卒業、九州大学大学院 歯学研究科博士課程修了後、同大小児歯科に勤務。96年、福岡県糸島市に松本こども歯科クリニックを開院する。2011年、同院を閉院しミャンマーを中心とした東南アジアで、歯科分野のボランティア活動を開始。12年には「福岡・ミャンマー友だちの会」を結成し、日緬の文化交流活動を開始する。19年に「第20回 西日本国際財団 アジア貢献賞」、23年には「第60回 社会貢献者表彰」を受賞した。

1988年のクーデターでラングーン歯科大学が閉鎖

永杉 今回は、社会貢献支援財団が主催する「第60回 社会貢献者表彰式典」の会場にお邪魔し、受賞者の松本敏秀さんにお話を伺います。松本さんは2011年から今日に至るまで、ミャンマーで歯科医師の経験を生かしたボランティアを続けている方で、今回の受賞もその活動が評価されたものとなっています。
 本日は、松本さんのミャンマーにおける歩みを振り返っていきたいと思います。まず、ミャンマーとの出会いから教えてください。

松本 1988年に起こった、8888民主化運動がきっかけです。あの大規模な民主化運動により、ミャンマーの大学は軒並み閉鎖。ラングーン歯科大学も例外ではなく、歯学生の学びの場がなくなってしまいました。私は当時、九州大学病院の小児歯科に勤務していたのですが、当時の太宰府天満宮の宮司さんから、ミャンマー人留学生を受け入れられないかと打診されたのです。

永杉 太宰府天満宮の宮司さんですか。

松本 話は先々代の宮司さんにさかのぼります。その方は学生時代、ハーバード大学に留学しており、同室のミャンマー人留学生と親しくなりました。そのミャンマー人の息子さんが88年当時、ラングーン歯科大学に通っていたのです。大学再開の目処が立たないので、同窓の宮司さんを頼って、日本の歯科大学に息子さんを留学させられないかと相談をしたそうです。
 今ならインターネットを使ってやりとりできますが、当時は手紙が中心なのでなかなか話は進まず、結局息子さんが留学できたのは91年のことでした。彼はとても優秀な学生で、最終的には博士号も取得しています。その後、ミャンマーへ帰国することになるのですが、その際には私の後輩だった日本人女性との結婚も決めており、二人でヤンゴンに小児歯科医院を開きたいという相談を受けたのです。当時私は福岡県の糸島市で「松本こども歯科クリニック」を経営しており開院のノウハウがあったので、二人のサポートをすることになりました。そして2003年、ヤンゴンのマリーナレジデンス内に彼らの小児歯科医院が開業したのです。

永杉 2003年当時といえば、インフラ面は今以上に安定していなかったはずです。開業にあたってご苦労は多かったのではないでしょうか。

松本 歯科医院というのは、清潔な水と電気がなければ運営できません。当時のミャンマーで特に問題になったのは電気でした。普段は電気が通っておらず、時々通電するという状況。マリーナレジデンスを選んだのは、しっかりとした発電機を使えることが大きな理由でした。

永杉 当時のミャンマーの歯科事情はどのようなものだったのでしょうか。

松本 民主化以降は、ミャンマー人も歯医者にかかることが増えましたが、当時は一般市民にとって身近なものではありませんでした。歯科医院に来られる人は富裕層のみ。地方にはそもそも歯科医院がない地域も多く、劣悪な環境と言わざるを得ませんでした。
 彼ら夫婦はそんな現状を変えようと考え、医院が軌道に乗ったら地方での歯科ボランティアを始めたいという希望を持っていました。しかしその矢先、日本人の奥さんが病気になり帰らぬ人となったのです。2人の子どもを遺して亡くなったということもあり、ご主人だけで歯科医院を維持していくことは難しく、閉院を決断されました。
 私は彼女の遺志を引き継ぎたいと思い、自分のクリニックを閉め、2011年からミャンマーでボランティア活動を始めることにしました。もちろん彼女の遺志だけではなく、私自身、心温かな人が多いミャンマーに惚れ込んでいたので、ミャンマー人の役に立つことをしたかったという思いもありました。

▲2013年3月に仏教徒とイスラム教徒が衝突したマンダレーの町で予防歯科指導

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