2006年から始まったミャンマーとの交流
永杉 2024年最初のTOP対談にお迎えするのは、国内外でさまざまな社会貢献活動に尽力し、特にミャンマーでも熱心に活動していることで知られる安倍昭恵さんです。昭恵さんは2021年10月号の本連載にもご登場いただき、同年に発生したミャンマーのクーデターについてのお話を伺いました。あれから2年以上も経過していますが、残念ながらミャンマー国内の状況は好転していません。一方、日本では昭恵さんが代表理事を務める「ミャンマー祭り」が2023年、4年ぶりに開催されるなど、コロナ禍後の動きも生まれています。今日は昭恵さんとミャンマーのつながりについて改めてお聞きするとともに、今後の日緬関係のあり方についてお話を伺っていきます。
さて、昭恵さんは2006年からミャンマーで「寺子屋支援活動」と名付けられた学校建設支援をされています。学校建設支援というのは他のアジア諸国などでも盛んに行われているものですが、そもそもなぜ、支援先としてミャンマーを選んだのでしょうか。
安倍 他国の子どもたちに教育の機会を支援することは以前から興味がありました。こうした支援をどの国に対して行うべきかを、主人(安倍晋三氏)に相談したところ「それならミャンマーがいいんじゃないか」と返答されたことが、そもそものきっかけですね。
永杉 ご主人のアドバイスだったのですね。ご主人はどうしてミャンマーを挙げたのでしょうか。
安倍 1980年代、第一次中曽根政権時代の話です。同内閣では義父の安倍晋太郎が外務大臣を務めており、主人は大臣秘書官に就任しました。当時は先の大戦にかかわる戦後補償が進められており、主人も随行して各国との補償交渉に参加したのですが、ほかの国々との話し合いは大変難航したそうです。そのような中、ミャンマーだけが日本の軍歌を歌って大歓迎してくれ、補償交渉もミャンマー側の要求はほとんどなく、極めてスムーズに終わったと聞いています。主人はそれ以降、ミャンマーに深く関心を寄せていました。
永杉 ビルマ戦線は苛烈を極め、日本兵の戦死者は15万人とも19万人とも言われています。もちろん、ビルマの国土や国民に対して与えた影響も大きなものでした。にもかかわらず、補償交渉の場でそのような振る舞いができるのは、ミャンマーの人々の心の広さ、温かさを示していますね。
安倍 主人の言葉をきっかけにミャンマーに関わることになり、各地で学校を作る活動を始めました。この活動を通じてミャンマーを深く知り、本当に良い国だと感じたのですが、日本人がミャンマーに持つイメージが「軍事政権の怖い国」で留まっていることにズレを感じました。そこで、ミャンマーの本当の良さを知ってもらう活動も始めようと思い至ったのです。一般社団法人ミャンマー祭りの会長に就任させていただいたのも、そんな思いが根底にあります。