【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

株式会社吉沢車輌 代表取締役 吉沢康弘 氏

今回のテーマ
「町工場の心意気」で1,500万円の困窮者支援をした経営者

吉沢康弘 氏
[Yasuhiro Yoshizawa]

1970年、埼玉県生まれ。2000年頃からサラリーマンと並行してオフロードバイクのレーサーとして活動。2015年、タイとミャンマーへの支援活動をきっかけに、ゴミ収集車の修理販売を行う(株)吉沢車輌を起業する。1年後、起業のきっかけとなった難民医療施設メータオ・クリニックへ100万円の寄付を実施。その後も積極的な寄付活動を続けており、現在までに約1,500万円の寄付を行っている。各国のゴミ問題を解決するため、日本のゴミ処理技術をアジアの若者に伝える活動を計画中。

偶然の出会いに導かれて国境の街メーソートへ

永杉 本日は、埼玉県でゴミ収集車(パッカー車)の修理販売を行う株式会社吉沢車輌の代表取締役、吉沢康弘さんにお話を伺います。吉沢さんはこれまで、ミャンマーやタイに個人で総額1,500万円ほどの寄付をし、今も各所に支援を続けている方として知られています。今回は、吉沢さんの寄付活動への思いに迫っていきたいと思います。まずは、起業以前のお話を聞かせてください。

吉沢 高校卒業後、自動車修理工場やクレーンのオペレーターを経て、今の仕事につながる、パッカー車の修理会社で働き始めました。
 また、会社員と並行して、オフロードバイクのレーサーとしても活動していました。一時期はKTMというバイクメーカーの契約ライダーをしており、日本ランキングで14位に入ったこともあります。プロとして活動することは難しかったですが、本業と並行しつつ、自分なりに人生をかけて打ち込んでいました。

永杉 会社員兼レーサーという肩書きを聞くに、とても充実した日々を送っていらしたようですね。

吉沢 自分でも当時はそう考えていました。娘が2人いるのですが、彼女たちにも本業をやりながらレーサーとして活躍する姿を見せて「大人も楽しいものだよ」と暗に伝えているつもりでした。
 しかし、上の娘が中学生の頃、一時不登校になってしまったのです。そこで初めて、娘の思いに気づいてあげられなかったことを深く反省し、自分の人生を見つめ直すきっかけとなりました。
 その頃、知り合いの経営者が「世界を広く見る視野を持つべきだ」という話をされました。それを聞いて、娘にも学校以外の世界に目を向けてほしいと真っ先に考えました。それで、まずは自分が世界を見てみようと思い、タイを訪問したのです。
 最初に到着したバンコクではさまざまな方とお会いしたのですが、その中に泉裕さんというカメラマンがいました。彼は1998年頃からメーソートに住んでいて、カレン民族同盟(KNU)の従軍記者をしていた経歴の持ち主です。彼にメーソートに連れて行ってもらい、メータオ・クリニックを案内してもらったことが、今の支援活動につながっています。ちょうど10年前のことです。

永杉 メータオ・クリニックは、泰緬国境の街メーソートにある総合診療所です。アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞も受賞したシンシア・マウンさんが1989年に設立し、軍の弾圧から国境を超えて逃れてきたミャンマー人への支援活動を行っています。私が昨年訪れた際は綺麗な病院になっていましたが、10年前はまだ建物も古かったのではないでしょうか。

吉沢 案内してくれた泉さんのお話では、ミャンマーの内戦が続く1990年代後半はトタンづくりで、まさに野戦病院という状況だったそうです。私が初めて訪れたときは比較的綺麗になっていましたが、お世辞にも設備が充実しているとは言えない状態でした。
 しかし、そんな中で懸命に働く人々に本当に感銘を受けたことを覚えています。中でももっとも感動したのは、院長のシンシア先生の人柄でした。

永杉 私もお話を伺いましたが、本当に素晴らしい方です。

吉沢 難局に動じない強さ、リーダーとして揺るぎない姿勢など、一人の人間として学ぶべきところの多い方だと思いました。しかし、そんな方が運営する素晴らしい施設なのに、ひどい資金難であることを知りました。それはおかしいと思い、シンシア先生の前で「自分が1年後に100万円を寄付します」と宣言したのです。

▲メータオ・クリニック院長のシンシア先生と

3,000円のご支援で1か月飢えをしのぐことができます