【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

東京新聞記者 北川成史 氏

今回のテーマ
ミャンマー問題を報じ続けるジャーナリスト

北川成史 氏
[Shigefumi Kitagawa]

1970年、愛知県生まれ。早稲田大学商学部卒。95年に中日新聞社(中日・東京両紙を発行)入社。東京社会部を経て、2017年9月から3年間、バンコク支局特派員としてアジア・オセアニアを担当し、ミャンマーの政治や社会、民族を取材した。現在、特別報道部記者。在日ミャンマー人とクーデターなどアジアの問題を追い続けている。著書に「ミャンマー政変―クーデターの深層を探る」(ちくま新書)、「ミャンマーの矛盾―ロヒンギャ問題とスーチーの苦難」(明石書店)。「東京新聞外報部」名の共著で「報道弾圧―言論の自由に命を賭けた記者たち」(ちくま新書)

恩師の影響でミャンマーに関心
特派員として各地を取材する

永杉 本日は東京新聞記者の北川成史さんにお話をうかがいます。北川さんはかつて特派員としてバンコク支局に勤務した経験をお持ちで、アジアの諸問題、とりわけミャンマーに関する問題を数多く扱うジャーナリストとして知られる方です。今回は、北川さんがなぜこれだけミャンマーに心を寄せ続けているのか、その背景を聞いてみたいと思います。まず、ミャンマーとの出会いを教えてください。

北川 最初の出会いは1986年から87年頃、私が高校生のときです。通っていた高校の先生が以前、ラングーン(現ヤンゴン)日本人学校に赴任していた方で、ビルマの涅槃仏などのめずらしい写真を見せてくれたり、異なる文化や風習などの話を聞かせてくれたりしました。
 先生の影響でミャンマーに対する興味が深まる中、88年に大規模な民主化運動が起こり、日本でも盛んに報じられたことで、より関心が強くなりました。大学時代にはミャンマーに初めて入国し、軟禁状態にあったアウン・サン・スー・チーさんの自宅を探し歩きました。
 本格的にミャンマーに関わるようになったのは、記者になり特派員としてバンコクに派遣されてからになります。

永杉 1995年、中日新聞社に入社されました。そこからバンコク赴任に至るまでの経緯を教えてください。

北川 将来的に特派員としてアジアに行ってみたいという願望を持ちながら入社しました。入社後は水戸と浦和でそれぞれ3年ずつ勤務し、その後は東京の社会部に配属されました。
 特派員としてバンコク支局に赴任したのは、2017年のことです。バンコク支局は取材エリアが広く、東南アジア、南アジア、オセアニアなどの各国を取材して回る日々でした。もちろん、ミャンマーにも数多く取材に訪れました。

永杉 2017年といえば、NLDが政権を取って2年ほどたった頃です。今から振り返ると、ミャンマーが安定していた時代といえるでしょう。取材活動も比較的スムーズだったのではないでしょうか。

北川 一部の紛争地域などを除けば、取材規制はほぼありませんでした。ロヒンギャがいるラカイン州北部や、中国が主導する水力発電ダム計画への反対運動が起こっていたカチン州のミッソン、シャン州のワ州連合軍が支配する地域にも入ったことがあります。

永杉 各所を巡ってみて、どのような印象を抱きましたか。

北川 多様性がある国だと思いました。宗教の面でいえば大半は仏教ですが、カチン州に行けばキリスト教の教会が目立ち、ロヒンギャの地域に行けばモスクが目立つ。経済の面も同様で、ワ州連合軍の支配地域では中国元が流通し、シャン州復興評議会の本拠地付近ではタイバーツが流通するなど、ミャンマー国内にも関わらずチャットがほとんど使われていない地域もありました。
 このように民族が混在する多様性は、私のミャンマーに対する興味をより深めてくれたと思います。

▲ラカイン州にて(2018年5月)

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