【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

NPO法人 日本ミャンマー・カルチャーセンター 創設者 マへーマー 氏

今回のテーマ ミャンマー人の「駆け込み寺」と呼ばれるNPO法人創設者

マへーマー 氏 [Ma Hay Mar]

NPO法人 日本ミャンマー・カルチャーセンター 創設者
ミャンマー中部メイッティーラ出身。
地元の僧院で英語と日本語を学び始める。ヤンゴン大学英語科入学後の1996年3月、落合清司氏と結婚したことを機に来日し、日本での生活を開始。1998年3月、東京工学院日本語学校卒業。2002年3月、中央大学商学部商業貿易学科卒業。同年12月にNPO法人日本ミャンマー・カルチャーセンター(JMCC)を、落合氏とともに創設し、現在に至る。

祖父母の影響で日本に興味
僧院で日本語を学ぶ

永杉 本日はNPO法人 日本ミャンマー・カルチャーセンター(JMCC)の創設者である、マへーマーさんにお話をうかがいます。同法人は、日本人向けのミャンマー語教室や文化講座を開催するほか、日本で暮らすミャンマー人のサポートなどを行う団体です。また、マへーマーさんはテレビなどにも数多く出演されているので、ご存知の方も多いかもしれません。
 私が初めてお会いしたのは、確か10年ほど前のことだったと思います。最初の印象として強く残っているのが、読み書きも含めた高い日本語能力でした。そのようなマへーマーさんが、日本と関わることになったきっかけと、日本語を学び始めたきっかけを教えてください。

マヘーマー 私はミャンマー中部マンダレー近郊にある、メイッティーラで生まれました。メイッティーラは第二次世界大戦のさなか、連合軍と日本軍が激しい戦闘を繰り広げ、多くの日本兵が犠牲になった場所です。そのため、日本兵とゆかりがあるミャンマーのお寺があり、そこを訪れる退役軍人の家族や遺骨収集団も定期的に訪れる町だったので、子どもの頃から日本人を目にする機会がありました。
 また、祖父母から日本軍が駐留していた時代の話を聞くことがあり、日本に対して良い印象を抱いていたため、私も日本に対する親近感を持っていました。

永杉 メイッティーラは、敗退した日本兵の骨で埋め尽くされたことで有名な「白骨街道」にも近い激戦地の一つですね。お祖父様、お祖母様は日本のどのようなことをお話になられていたのでしょうか。

マヘーマー イギリス統治下の時代は鉄道網の拡大が推し進められました。鉄道は便利なものですが、当時のミャンマーには未整備の道路が多くアクセスが困難な場所も多くあったそうです。一方、日本軍は駐留後、道路の整備に力を入れ、車を持って来て道路を作りました。それによってミャンマー全土への交通のネットワークが広がって物流が円滑になりました。戦後は日本軍が残していった車をミャンマーの民間人が買取り運送業を始めたそうです。私の祖父母も、戦中戦後にかけて運送業で生計をたて成功したので、日本の植民地時代は良かったという話をしてくれました。また、日本軍が来てからは憲兵隊が目を光らせ、治安もよくなったと聞いています。
 こうしたことから日本を始めとした外国に興味を持ち始め、メイッティーラの僧院で日本語と英語を習い始めたのです。そして、ヤンゴン大学の英語科に進学しました。

永杉 ミャンマートップの大学で学び始めたわけですが、2年次に進路を変更して来日をされています。日本に来ることになったきっかけはなんだったのでしょうか。

マヘーマー 軍事政権下における大学の閉鎖で思うように学ぶことができず、ミャンマーの将来を思い描くことができなかったということが大きな理由の一つといえます。また、以前からの知り合いでのちに夫となる日本人(注:落合清司さん)が来日を後押ししてくれたので、ミャンマーではなく日本で学ぶことを選択しました。

▲JMCCと提携しているメイッティーラ市のニャウンガイン慈善学校(孤児院)への支援

3,000円のご支援で1か月飢えをしのぐことができます