親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

(22)誰のための憲法なのか

 社会規範を作るためにルールが必要なのは当然であり、国を統治するために憲法は不可欠。憲法はその国の状況を顧みながら、国民や国民の代表である政治家が議論を重ねて制定されるものであり、皆が納得した内容でなければならない。

 しかし、ミャンマーの憲法は国軍の保護策とも言える内容ばかりになっている。私は専門家でも学者でもないが、一般市民の立場からでもわかる。ミャンマーの憲法は何を原則として作られてきたのだろうか?

 1974年憲法(ビルマ連邦社会主義共和国憲法)は、1962年のクーデターを起こしたネ・ウィン将軍の身の安全を保障する内容となっており、その後大統領になったという経緯がある。仮に文民政治であれば、彼が処罰対象であったことは間違いない。
 1988年のクーデターでは数千人が犠牲となり、言われなき罪で数千人が投獄され、市民の怒りは沸点に達していた。そして、アウン・サン将軍譲りの頑固なアウン・サン・スー・チー氏から復讐されれば、軍政もどうなるかわからない状況だった。軍は彼女を恐怖の対象として扱い、だからこそ徹底的に排除を試みる。2003年の地方遊説中に起きたディペーイン事件で彼女を暗殺しようとしたが、なんとか運良く逃れることができた。しかし、その後は拘束されてしまうのだが。

 軍政からすると、ミャンマー国民は恐怖心を植え付ければ抑え込めると考えているようだが、信念を貫くアウン・サン・スー・チー氏は目の上のタンコブといった存在だった。だからこそ難癖をつけて軟禁し、刑期が終わる頃に再び違う理由で軟禁するということを繰り返した。国際社会に対しても彼女の信用を損なうデマを流し、一方国内には国営メディアを多用しながら市民を洗脳しようとしたが、それは叶わなかった。

 NLDはアウン・サン・スー・チー氏が率いており、党員は知識人である医者、弁護士、退役した軍高官など多くが信念の強い人物が揃っていた。何度となく投獄されても非暴力を貫き、強い絆で結ばれ、国軍に対抗姿勢を見せた。裏切り者を出すことなく、命懸けで抵抗していたわけである。

ヤンゴン市内のアウン・サン・スー・チー邸

 軍政も水面化でNLDと交渉をしていたが、難航し停滞していた。交渉条件は明らかになってはいないが、軍政が行った罪の無効化と憲法の改正だった模様。

 そして、タン・シュエ司令官は、NLDが総選挙をボイコットしていた1993年から2008年まで、アウン・サン・スー・チー氏を牽制するため、ゆっくりと時間をかけながら憲法を制定した。彼女が大統領になることはできず、野党が政権を奪取しても憲法は変えられない仕組み。議席の4分の1、つまり25%を軍人に割り当てること、憲法改正に議席の75%が必要、政府内の重要ポスト3省を軍が統括、国家が危機の状態になれば軍政が実権を掌握するという条文。

 つまり国家に混乱状態になれば、全権をタン・シュエ司令官が掌握できるということである。しかし、NLDもその後アウン・サン・スー・チー氏を国家最高顧問という役職を作ることで対抗した(それを起草したとされる弁護士はヤンゴン空港で退役軍人に射殺された。しかし犯人は今も軍施設で匿われているようだ)。

 タン・シュエ司令官は前政権のネ・ウィン氏と家族を軟禁し、仏教徒というバックボーンからも因果応報を信じているところがあり、だからこそ保身を最優先した。後継者をミン・アウン・フライン司令官に譲ったのも彼を信頼していたため。

 ミャンマーは今もなおアウン・サン・スー・チー氏に対抗するための憲法で運用され、それは国のためではなく、国軍の保身のため。そのような憲法があっていいのだろうか。

(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている