【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

メータオ・クリニック院長 シンシア・マウン氏

今回のテーマ 「アジアのノーベル賞」を受賞
国境地帯で移民や難民に医療を無償で提供するクリニック

シンシア・マウン 氏 [Cynthia Maung]

メータオ・クリニック院長
1959年ヤンゴン近郊生まれ。
大学卒業後は大病院に勤務していたが退職し、自身のルーツであるカレン民族の村で医療活動を行う。88年にタイのメーソートへ亡命。89年、メータオ・クリニック創設。以来、ミャンマーからの移民・難民への医療支援を続けている。2002年にはアジアのノーベル賞といわれる「マグサイサイ賞」を受賞、03年には米『TIME』誌の「アジアの英雄」に選出されるなど、その活動は高い評価を得ている。

88年民主化運動で亡命
学生とともに診療所を開設

永杉 タイ・ミャンマー国境地帯インタビュー第4回目となる今回は、タイ北西部メーソートにある「メータオ・クリニック」の創設者であり、院長のシンシア・マウンさんにお話をうかがいます。
 同院はさまざまな理由により医療にアクセスできないミャンマー移民や難民に対して、無償で医療を行っている総合診療所です。また、医療以外にも幅広い人道支援を行っており、その活動は世界中で高く評価されています。
 まず、シンシアさんがミャンマーからタイに渡り、クリニックを開設するまでの経緯を教えてください。

シンシア ミャンマーでは医師として病院に勤務したほか、私のルーツであるカレン民族の村で医療活動を行うなどの活動をしていました。しかし、1988年に起きた民主化運動の際、軍事政権から弾圧を受けていた学生たちとともに運動に参加したことをきっかけに、難民としてタイのメーソートに亡命することになったのです。
 そして、貧困や軍事政権の迫害・弾圧などにより医療にアクセスできない人々を助けるため、同じく亡命した7名の学生とともに89年、メータオ・クリニックを設立しました。

永杉 患者さんはどのような方がいらっしゃるのでしょうか。また、提供しているサービスについても教えてください。

シンシア ミャンマー国内の情勢の変化に伴い患者構成も変わりますが、基本的には半数がミャンマー側から国境を越えて医療を受けに来る方々、もう半数はメーソート在住のミャンマー移民という構成です。マラリアや肺炎に罹患した方、出産を控えた女性、子どもの予防接種希望者、地雷被害者など、さまざまな患者さんがいらっしゃいます。
 当院ではこれらに対応するため、内科、外科、小児科、歯科、眼科、産婦人科などの診療項目を設置。また、公衆医療の啓蒙活動や学校・孤児院の運営、死亡患者の葬儀など、医療行為以外の支援活動も行っています。こうした幅広い活動を行うため、医療スタッフは166名、非医療スタッフは177名という体制で運営を行っています。

民政移管、コロナ、クーデター
情勢の変化が与える影響

永杉 「情勢の変化に伴い患者構成も変化した」というお話がありました。89年の創設以来、ミャンマーはまさに激動といえる時代が続いています。そこでここからは、2011年の民政移管、20年の新型コロナウィルス流行、そして21年のクーデターという3つの大きな出来事に沿ってお話をうかがいます。
 まず、11年の民政移管前後でクリニックに起こった変化について教えてください。

シンシア 民政移管が進められたテイン・セイン政権時代以降は、我々にも大きな変化がありました。まずは、患者数の減少です。ミャンマー側に医療施設が増え、11年には約15万人だった総外来患者数も19年には9万人程度にまで減少しました。しかし、さまざまな事情から当院を訪れる人々がいる以上、我々はこの地で活動をしなければいけません。2015年には、ミャンマー側のミャワディへの移転を検討しましたが、最終的に我々はこの地に留まることを選択しました。
 財政面で苦しくなったことも、民政移管前後で起きた変化です。我々はすべての患者さんに無償で医療を提供しており、活動資金は各国の人道支援団体からの寄付によりまかなっていました。民政移管前はそれら団体の多くはメーソートに拠点を置き、我々に支援をしてくれていたのですが、移管後にそうした団体は軒並みミャンマー側へ拠点を移すことになったのです。この移転に伴い我々に対する支援金も大きく減少してしまい、活動に支障がでるようになりました。

永杉 患者数が減少したとはいえ、19年時点で年間9万人が訪れるなど、国境付近で苦しい生活を強いられる方々にとっては大きな存在感を発揮されていたと思います。しかし、20年に新型コロナウィルスが蔓延し、ミャンマーでも猛威をふるいました。

シンシア 民政移管前後以上の大きな影響がありました。20年3月にコロナで国境が完全に閉鎖されたため、ミャンマーからの患者さんはほぼゼロになり、年間外来患者数も6万人に減少しました。21年になると、新型コロナウィルスの院内感染が発生して3ヵ月ほど病院が閉鎖されたこともあり、年間外来患者数は3万人にまで減少したのです。
 そうした状況下でもコロナ罹患者は続出し、21年は547名、22年1月から5月は996名が入院しました。ワクチンはタイ政府から無償提供を受けることができ、21年には1,673回、22年1月から5月は11,264回の接種を行った実績があります。

▲コロナワクチンの接種
▲コロナのPCR や抗原検査の様子
▲眼科外来の前で手術を待つ患者さんたち
近年は戦闘による負傷者が急増
今後は人材育成を強化する

永杉 コロナ禍が続くなか、追い打ちをかけるように21年2月、ミャンマーでクーデターが発生しました。クリニックにはどのような影響がありましたか。

シンシア ミャンマー軍による攻撃でたくさんの人々が危険にさらされており、当院を訪れる患者さんにも明らかな変化が見られました。
 まずは、戦闘による負傷者の増加です。21年末、国境を隔てたカイン州のレイケイコー村で戦闘が始まりました。これに伴い、下肢切断、頭部の銃創といった多数の重症者が地元の医療団体によって搬送されるようになりました。
 また、軍の攻撃から逃れるため、ミャンマーでは多くの人々が国内避難民としてジャングルに逃げ込むことを余儀なくされています。劣悪な環境で生活せざるをえなくなった人々が健康を害するケースが増えていることも、クーデター後に起こった変化です。例えば近年、マラリア罹患者数は減少傾向にあったのですが、ジャングルで暮らす人が増えたことで、再び増加傾向に転じました。

永杉 クリニックを運営する上で、現在問題になっていることはありますか。

シンシア 資金難は大きな問題です。先に述べた通り、民政移管にともなって各国の支援団体は支援対象を国境地域からミャンマー国内へとシフトさせました。我々はこれにより、スタッフの給与カットだけでなく、緊急性の低い診療科やサービスの停止などの対応をせざるをえなくなったのです。
 クーデターにより、国境における医療の重要性は再び高まっていますが、満足な医療を行うための資金が足りません。必要な薬の提供、当院では診きれない患者さんを大病院に移送するための費用など、あらゆる面で資金が必要です。

永杉 クリニックとしての今後のビジョンについて教えてください。

シンシア いま申し上げた通りコロナやクーデターなどが発生したことで、当クリニックの重要性はより増していると認識しています。ですから、ここでの活動はこれからも継続して行っていくことになるでしょう。
 それとは別に、さらに強化するべき点が2つあります。まずは人材の育成。ミャンマーの国境地帯では、満足な医療サービスにアクセスできない人々が多数います。国境は長く、ひとつのクリニックだけでカバーすることなど到底不可能ですから、各地に当院と同様の医院を設立・運営する人材の育成を進めなければなりません。
 2つ目は、国境地帯におけるさまざまな協力体制の強化です。我々はタイ政府から正規の医療団体として認定されていません。先ほど、「コロナワクチンはタイ政府から提供された」と申し上げましたが、これは感染症蔓延防止および人道的観点から行われたもので、通常は公的な資金援助を受けることはできません。しかし国境地域では多くの民族系医療団体、市民団体、国際及びタイのNGOなどが活動しています。私たちは以前からそれらの団体と協力して活動してきましたが、さらに多くの団体と有機的に協同することによって、クーデター後の危機的状況に対応することを目指しています。もちろん、国際社会からの関心や支援も私たちにとって大きな支えです。

永杉 国境地帯における軍による無差別攻撃は、今も多くの地域で続いています。正規のルート以外で国境を越えなければ、最低限の医療・食糧支援すらできないという現実があるため、メータオ・クリニックの存在意義は非常に大きいと思っています。しかし、これだけの意義ある活動をしながら、公的な資金提供が受けられない状況におかれていることは大変歯痒く思います。
 私は今年、在日ミャンマー人や日本人有志、超党派の国会議員らとともに「ミャンマー国際支援機構(MIAO)」というNPO法人を設立しました。そこでは、政府や国際機関などが提供する支援ルートからこぼれ落ちてしまう国境地帯の人々を助ける活動を柱に据えています。今後、メータオ・クリニックとの協力体制も構築していくことを希望します。本日はお忙しい中ありがとうござい
ました。

(取材協力:ジャパンソサエティ井本勝幸 撮影 尾崎ゆうき)

永杉 豊 [Nagasugi Yutaka]

MJIホールディングス代表取締役
NPO法人ミャンマー国際支援機構代表理事

学生時代に起業、その後ロサンゼルス、上海、ヤンゴンに移住し現地法人を設立。2013年6月より日本及びミャンマーで情報誌「MYANMAR JAPON」を発行、ミャンマーニュースサイト「MYANMAR JAPONオンライン」とともに両メディアの統括編集長も務める。
(一社)日本ミャンマー友好協会副会長、(公社)日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、UMFCCI(ミャンマー商工会議所連盟)、ヤンゴンロータリークラブに所属。近著に『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社)。

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