【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

カレンニー民族進歩党(KNPP)議長 ウー・レー氏

今回のテーマ
ミャンマー国軍に抵抗する少数民族組織のトップ

ウー・レー氏 [Khu Oo Reh]

カレンニー民族進歩党(KNPP)議長
1960年カレンニー(カレン)州プルソーに生まれる。1977年よりカレンニー民族進歩党(KNPP)に入党。92年にKNPP中央委員に就任。97年から2007年まで事務局長を務める。09年より副議長。22年から議長を務める。

第二次大戦終結後から活動
カレンニー民族の自由のため闘う

永杉 ミャンマーの諸先輩方にお話をうかがう目的でスタートしたTOP対談も、ついに連載100回を迎えました。それにともない、今回からタイとミャンマーの国境付近で取材をし、現地の方の声をTOP対談でお届けしていこうと思います。
 今回は、カレンニー民族進歩党(KNPP)の議長であるウー・レーさんにお話をうかがいます。KNPPはタイと国境を接するカレンニー(カヤー)州に本拠をおき、ミャンマーからの分離独立運動を行っている組織です。傘下にカレンニー軍(KA、Karenni Army)を持つ、いわゆる少数民族武装勢力(EAO、Ethnic Armed Organizations)として知られています。まずは、KNPPの成り立ちから教えていただけますでしょうか。

レー KNPPについて説明する前に、まずはカレンニー民族についてご説明します。カレンニー民族とは、ひとつの民族を指す言葉ではありません。ミャンマー東部の地域に住む4つの民族の総称がカレンニーなのです。我々は歴史的に独立を保っており、英国統治時代も一定の自治を有していました。第二次世界大戦が終結した1年後の1946年、戦後の混乱の中で我々の独立や自治が脅かされることを危惧した4民族の長が集まりカレンニー民族による統一政府の樹立を宣言しました。United karenni Independent Stateという名のもとで民族の結束を図ったのです。しかし、ビルマ政府および当時のビルマ警察軍は、これを阻止しようと弾圧を強めてきたのです。
 そして、48年8月9日。United karenni Independent Stateの代表であるビー・トゥレが軍によって拘束、殺害されました。我々の闘争の歴史は、この日から始まったと言っていいでしょう。しかし、当初はKNPP内部の意見も分かれていました。ビー・トゥレの後を継いだジョ・ナインは、武装闘争ではなくあくまでもビルマ政府との話し合いを優先すべきと主張し、ビー・トゥレ殺害から約1ヵ月後の9月8日、ビルマ政府と話し合いの場を設けました。しかし、ジョ・ナインはその場で拘束。収容所に入れられ、後に殺害されました。
 当時のNo.2だったソー・シュウェはビルマ政府と警察軍の危険性を指摘し、話し合いを拒否し続けていました。ジョ・ナインが殺害されたあと、KNPPを率いることになったソー・シュウェは、若者たちとともにジャングルに潜伏し、政府や軍と闘うことを選んだのです。

▲KNPP ウー・レー議長とプル・レー事務総長

永杉 KNPPの設立は1957年と聞いていますが、それ以前から対立が始まっていたのですね。

レー ソー・シュウェはジャングルで闘争を続けてきましたが、56年にマラリアとインフルエンザを併発して亡くなりました。その後、彼の妻がリーダーになったのですが、彼女は3人の子どもの母であり、ジャングルで抵抗戦を続けるのは困難でした。そこでトォ・プロにリーダーの座を譲ることにしたのです。このタイミングで設立されたのが、カレンニー民族進歩党(KNPP、Karenni National ProgressiveParty)です。これが57年のことで、公式にはこの年がKNPPの設立年とされています。
 設立時にはカレン族の代表者などを招き、大きな会議を開きました。そこでは、「ビルマ政府や軍と対立するためには政治的闘争も必要だ」という認識で一致しました。以後、我々はビルマ政府と政治的闘争を続けています。

不調に終わる和平交渉
2017年の事件で決定的に破局

永杉 KNPPを含むEAOの歴史は、武装闘争の歴史であるとともに和平の道筋を探る歴史でもあります。和平交渉のきっかけはこれまでにどのくらいあったのでしょうか。

レー 最初に話が持ち上がったのは63年、ネ・ウィン政権時代です。彼は全武装勢力に呼びかけましたが失敗に終わります。92年から始まったタン・シュエ政権時代には2度の政治対話の機会がありましたが、交渉は決裂し、かえって各武装勢力とビルマ軍の戦闘が激しくなるきっかけとなってしまいました。
 その後も、97年、2001年、07年などに和平交渉の機会はありましが、どれも失敗に終わっています。

永杉 和平交渉が不調に終わる原因は何だったのでしょうか。KNPP側として譲れない点はどこにあるのでしょうか。

レー 我々は和平を拒否しているわけではないのです。しかし、譲れない点もあります。一番重要なことは、和平交渉に外国組織など第三者機関に立ち会ってもらうこと。これをしなければ公平ではないし、透明性もないと主張し続けてきました。かつて、政府は第三者の立会いすら拒否していたのです。

永杉 その後、15年には笹川陽平ミャンマー国民和解担当日本政府代表も参加し、ミャンマー政府と8つの少数民族武装勢力との間で停戦協定が合意に至ります。ただ、KNPPはこの8つの中に入っていません。

レー 15年の協定に先立ち、KNPPは12年にミャンマー政府との間で局地的な停戦協定を結んでいます。15年の停戦協定には否定的ではありませんが、全土を対象とした停戦合意ですから、全少数民族武装勢力と政府、軍すべてが同じテーブルについて話し合うべきだと考えていました。しかし、実際に全勢力が揃うことはなかったため、KNPPは合意を見送ったという経緯があります。

永杉 停戦合意が15年に締結されたあと、18年には他のEAOが遅れて合意に参加しています。あとから合意に加わるという考えはなかったのでしょうか。

レー 残念ながら、それを検討している矢先の17年、ある事件が起こりました。国軍が我々を一方的に攻撃し、4名の死者がでたのです。犯人の逮捕と正当な裁判を要求しましたが、軍はその後さらに我々の検問所を襲撃してきたのです。この戦いは拡大し、翌18年にかけて大きな戦闘になってしまいました。この状態では停戦などありえません。

▲KNPPの軍事部門KA(カレンニー軍)で訓示するウー・レー議長
局地的だった軍との対立が
クーデター後は全土に波及した

永杉 軍との対立が続いたまま21年2月、クーデターが発生します。KNPPとしては国軍のクーデターをどのように見ましたか。

レー クーデターについての見方は皆さんと大きく変わるところはありません。軍はこれまで何十年もこの国のあらゆる利権を独占してきました。ファミリービジネスに固執し、身近な人間に富を集めることに汲々としていたのです。しかし、NLD政権以後、その力が削がれていることを実感した。さらに、ミン・アウン・フラインの権力欲もあったでしょう。その結果がクーデターです。
 ただ、世間の見方とは一つ異なる点もあります。それは、国軍による「選挙に不正があった」という主張です。残念ながら、これは完全に否定できるものではありません。実際私も、カレンニー州においてNLDサイドによる不正な票集めを確認しています。これは一部かもしれませんが、完全にクリーンな選挙だったとは言えないのです。
 しかし、それならば正当な手続きで選挙の不正を暴けばよかった。それがクーデターを起こしてよい理由にはなりません。

永杉 クーデター後は多くの市民が反発し、民主派のNUGを支持するとともに、一部の若者はNUG傘下の武装組織である国民防衛隊(PDF)に加わりました。現在、PDFは地方の少数民族武装勢力と合流していると報じられています。KNPPもPDFを受け入れているのでしょうか、また、受け入れている場合、彼らとはどのようなスタンスで接しているのでしょうか。

レー PDFの構成員、とりわけ若者たちを受け入れて、彼らの求めに応じて軍事訓練などを行っているのは事実です。彼らは悲痛な覚悟でジャングルにやってきて、口々に「今、軍と戦わなければ暗黒の未来しか待っていない」と言います。我々は長年、軍の横暴に接し、彼らと同じ気持ちを抱き続けてきました。
 軍との対立はもはや少数民族だけの問題に留まりません。この地に生きる者全員の問題になりました。KNPPはこの国を正していくための政策として、今後も彼らへの支援を継続します。

▲KA(カレンニー軍)閲兵式に向かう

永杉 KNPPの最終目的は、やはり国軍の打倒ということになりますか。

レー 我々は何十年も国軍と戦ってきましたが、今は国民皆が我々と同じ状況に陥ってしまいました。同じ苦しみを持つ仲間として団結し、ともに国軍と闘うつもりです。そして近い将来、軍との戦いに勝利して、今回の愚かなクーデターに終止符を打てる日が来ると確信しています。
 しかし、軍の打倒がゴールではありません。分離ばかりを叫ぶつもりもありません。国軍が倒され、その先にすべての民族が対等な連邦国家を樹立すること。これがKNPPにとっての本当のゴールです。

永杉 最後の質問です。クーデター後は多くの避難民も発生し、混乱が広がっています。現在困っていること、必要な支援はありますか。

レー まず必要なのは食料、医薬品などの緊急援助です。困窮している人々への支援はぜひお願いしたい。国際社会も親身になってくれていることは重々承知しています。しかし、圧倒的に物資が足りていないのです。
 そして、武器の援助が必要です。この状況を終わらせるためには国軍を打ち倒す以外にはありません。兵力は十分にあるのですが、武器が足りない。国際社会には、ウクライナに手を差し伸べるように、私達にも武器を供給してほしいと願っています。

永杉 私は最近、在日ミャンマー人や日本人、超党派の国会議員らとともにNPO法人を設立し、困窮する避難民への支援スキームの確立を進めています。国境を視察し、どのような支援ができるかを早急に考えていきたいと思います。本日は貴重なお時間を賜りありがとうございました。

▲KA(カレンニー軍)
▲KA(カレンニー軍)の女性兵士たち

永杉 豊 [Nagasugi Yutaka]

MJIホールディングス代表取締役
NPO法人ミャンマー国際支援機構代表理事

学生時代に起業、その後ロサンゼルス、上海、ヤンゴンに移住し現地法人を設立。2013年6月より日本及びミャンマーで情報誌「MYANMAR JAPON」を発行、ミャンマーニュースサイト「MYANMAR JAPONオンライン」とともに両メディアの統括編集長も務める。(一社)日本ミャンマー友好協会副会長、(公社)日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、UMFCCI(ミャンマー商工会議所連盟)、ヤンゴンロータリークラブに所属。近著に『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社)。

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