【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

京都精華大学 国際文化学部 特任准教授 ナン ミャ ケー カイン氏

今回のテーマ
多彩な活動と民主化運動を推進する特任准教授

ナン ミャ ケー カイン氏 [Nang Mya Kay Khaing]

京都精華大学 国際文化学部 特任准教授
シャン州タウンジー生まれ。89年に来日し、日本語学校で学んだ後、立命館大学経営学部に入学。その後、同大学で国際関係学を学び博士号を取得する。卒業後は東京外国語大学で外国人特別研究員を務めたほか、複数の大学で非常勤講師として教鞭をとる。通訳・翻訳業のほか、母国ミャンマーでは日本語学校や出版社の運営にも携わる。21年より京都精華大学特任准教授に就任。専門分野は開発経済学、国際労働移動研究。

民主化運動で大学が閉鎖
日本で学ぶことを選択

永杉 本日は京都精華大学国際文化学部のナン ミャ ケー カイン特任准教授にお話をうかがいます。カインさんの肩書は、特任准教授、日本語学校・出版社運営、通訳・翻訳業など多岐にわたります。さらに、ミャンマー民主化に向けてさまざまな形で発信を続けるなど、精力的な活動を続けておられます。まず、カインさんが日本の大学で特任准教授に就任するまでの半生をお聞かせください。

カイン 生まれはシャン州のタウンジーです。高校卒業後、ヤンゴン大学の英文学部に進む予定でしたが、卒業目前の1988年に民主化運動が始まり、ミャンマー全土の大学が閉鎖されました。進路が閉ざされて困っていたその時、教員の父が仕事で日本に渡ることになりました。ミャンマーに残っても進学の道はありませんでしたから、私も同行して日本で学ぶ道を模索することにしたのです。
 来日当初は「あいうえお」も知りませんでしたから、まず日本語学校に入学しました。ちょうど2年学んだところで、父の仕事の任期が終わり帰国が決まったのですが、私は日本に残ることを選択しました。当時のミャンマーで勉強することは困難でしたから、日本で進学して経営学を学ぼうと考えたのです。最初は反対されて父とも衝突しましたが、最後には認めてもらえて、一人で日本に残ることになったのです。その後、立命館大学の経営学部に入学しました。

永杉 現在は開発経済学がご専門ですが、最初は経営学を学んでいたのですね。

カイン 二回生のとき、3年ぶりにミャンマーへ一時帰国しました。一度外国を見てから改めてミャンマーという国を俯瞰すると、貧困に苦しむ人々が多く目につきました。そこで、ボランティア組織を作って彼らをサポートする活動をしたいと思い、周囲の友人に相談を持ちかけたのです。しかし、彼らの反応は前向きではなく「自分のことだけを考えるべき」と言われました。私の家は決して裕福ではありませんでしたが、両親ともに教員で、いわゆる知識層といえる家庭だったと思います。私の友人も似た境遇の人が多く、比較的先進的な思想の持ち主だろうと考えていました。しかし、彼らが社会活動に後ろ向きの姿勢を見せたことにショックを受けました。
 世界では知識層や富裕層と呼ばれる人たちは社会問題に対して関心を持ち、問題解決のために自分の力をどのように使うかを考えることは当然のことです。しかし、ミャンマーではこれらの層の人々が自分の国の社会問題に対して無関心ということが珍しくありません。ミャンマーは寄付が盛んと言われますが、そうではない一面も確かに存在するのです。この現状をなんとかよい方向に変えたいと考えていたときに出会ったのが、開発経済学です。この学問は、途上国が発展していく上で、社会的・経済的にどのような道筋を進むべきかを研究し実践するものです。これを学ぶことは将来のミャンマーに役立つと思い経営学から方針転換することにしました。その後は大学院でも学び、2002年に国際関係学の博士号を取得しました。

永杉 卒業後は、東京外国語大学で外国人特別研究員を務めたほか、非常勤講師として都内の複数の大学で「開発経済学」「東南アジア地域研究」「現代産業事情」などを教えてこられました。具体的にはどのようなテーマを取り上げるのでしょうか。

カイン 例えば、地方の農村からヤンゴンに出稼ぎに来ている労働者たちの労働環境などがテーマになります。ミャンマーにおける出稼ぎ労働者は縫製工場などで働く工員と、インフォーマルセクターと呼ばれる路上で働く人々の2つに分類されます。後者はタクシー運転手や路上の飲食物販売などが該当します。彼らの生活環境を実証研究するほか、労働者を送り出す農村側の経済構造についても調査・研究を重ねてきました。

"EinHmetKwunAr Pyint GaBaGyawThu Honda Soichiro"、単訳、( 財団法人)大同生命国際文化基金の依頼によりQualityPublishing Houseが出版、2005年3月。原作は、本田宗一郎『本田宗一郎――夢を力に――』日経ビジネス人文庫、2001年。(財団法人)大同生命国際文化基金の依頼によりミャンマー語へ翻訳し、2000冊を財団の支援により出版し、ミャンマーの関係機関へ寄贈した。財団や原作出版社などの出版許可により現地出版社が1000冊を市販用に発行した。2007年1月に2005年度ミャンマー国民文学賞(翻訳部門)を受賞した
"Fukuzawa Yukichi"、単訳、(公益財団法人)大同生命国際文化基金の依頼によりMya Japan Service Sarpay が出版、2020年3月。原作は、浜野卓也『子どもの伝記15福沢諭吉』ポプラポケット文庫、2010年。(公益財団法人)大同生命国際文化基金の依頼によりミャンマー語へ翻訳し、2000冊を財団の支援により出版し、ミャンマーの各図書館とその運営機関へ寄贈した
民主化を境に大きく変化
母国でさまざまな事業を展開

永杉 その後、結婚と出産のため一時的に研究職から離れるものの、非常勤講師は続け、さらに母国で事業を起こすなど、幅広く活動をされています。

カイン 11年の民政移管を境にミャンマー関連の仕事が大きく増えました。日系企業の進出も増えたため、日系のシンクタンクで調査・コンサル業務を担当したこともあります。さらに15年の総選挙を経てNLD政権が誕生したことで、より自由に行動できるようになりました。そこで、ミャンマーで本格的に事業を開始することにしたのです。手始めに16年、ヤンゴンに「ミャ日本語学校」を開校しました。高度な日本語を教える目的以外に、私の日本在住の利点を生かし、日本留学に関する正確で詳細な情報を学生たちに提供することを心がけて運営しています。

永杉 ミャンマーでは出版社の運営にも携わっているそうですね。

カイン はい。もともと本に関わる仕事をしたいと思っていたとき、大同生命国際文化基金から支援を受け、日本の絵本や伝記をミャンマー語に翻訳して出版するプロジェクトに携わりました。そして19年にミャ・ジャパン・サービス・サーベーという出版社を立ち上げて運営しています。

永杉 その後、京都精華大学の特任准教授に就任されるわけですが、どのような経緯があったのでしょうか。

カイン 運営する日本語学校から日本の大学への留学ルートを構築しようと、さまざまな大学とコンタクトを取りました。そのうちの一校が京都精華大学で、お話を進めるうちに特任准教授就任を打診されたのです。本学は日本で初めてマンガ学部を立ち上げるなど、とても革新的な大学です。建学の精神の一つに「自由自治」という言葉があり、教員も学生も挑戦を躊躇しません。この校風にとても魅力を感じました。また、ミャンマーとの関係も深く、アウン・サン・スー・チーさんが1998年7月に自宅軟禁を解かれたあと、大学の代表者がスー・チーさんとの会談を実現させています。これらのことから、特任准教授の任をお受けすることにしました。

永杉 ご就任は21年4月のこと。つまり、クーデターから2ヵ月後です。就任以後、メディアで民主化を訴える発信を続けられています。顔を出して活動することには相応のリスクも伴うと思いますが、それでも発信を続ける理由を聞かせてください。

カイン 特任准教授になったことは、顔を出して活動することのきっかけになりました。この職についたことで、日本社会の中である種の信頼性が増したことを感じています。それは同時に在日ミャンマー人の一人として大きな責任が生じたとも言えるでしょう。ですから、メディアなどから発言を求められれば、しっかりと顔を出して自分の意見を表明しようと思うようになったのです。
永杉 ご両親や親族の方はミャンマーにいらっしゃるのですよね。心配ではありませんか。

カイン ものすごく心配です。母からは活動を控えてほしいとも言われています。永杉さんはミャンマーのことをよくご存じですから、私の家族に危険が及ぶ可能性を考えて心配してくださいます。しかし、多くの日本人は「他国でインタビューに答えてもなんの影響もないだろう」と考える人がほとんどです。今のミャンマーは、自由な発言すら許されないのだということをもっと広く知ってもらいたいです。

風刺画から見える国の姿
民主化実現まで運動を続けたい

永杉 ミャンマー国軍についてどのようにお考えでしょうか。

カイン 私は今、「自由と平和な表現活動の支援団体(WART)」という活動に参画しています。ミャンマーは古くから風刺漫画が盛んな国でした。そこでWARTは本学のマンガ学部の諸先生方とも連携してミャンマーに関する風刺漫画を募集し、各地で展覧会やセミナーを開いています。そこに寄せられた作品の中に『hahahaha』という漫画がありました。「ロヒンギャ」「デモクラシー」という文字を軍人が無邪気に踏みにじる姿が描かれた作品です。作者のホチキさんという方に話を聞くと、これは国軍の幼児性を暗喩したものだとのことでした。この「幼児性」という言葉に私は強く共感します。「自分たちが存在しなければミャンマーという国も存在し得ない」という誤った自負や、他者に否定されたらムキになって反撃するという軍の一連の行動は、まさに悪しき幼児性そのものと言えるでしょう。

▲(左)翻訳作業中の様子、2019年12月、ヤンゴンにて。(右)ミャンマーの今を伝えるトーク、2022年4月24日、浦和展示会にて
▲(左)『コラボWART展』@ミャンマーの日常と非日常~ミャンマーを知ろう!~、2022年4月24日、浦和駅東口前コムナーレ9階。(右)題名「hahahaha」、作家「ホチキ」、WART提供作品

永杉 カインさんの今後のビジョンを教えてください。

カイン 「自分のできることは最後までやる」という一言に尽きると思います。残念ながら、軍による不当な支配が一夜にして解消されるとは思えません。国軍が罪を認識し、ミャンマーに真の民主主義が訪れるその日まで、あらゆる運動を続けていきたいです。

永杉 先程お話に出た「WART」に興味があります。東京で展覧会の予定はないのでしょうか。

カイン 議員会館で開催したことはあるのですが、一般の方が入場できる展覧会はまだ開催できていません。機会があれば挑戦したいと考えているのですが。

永杉 先日、ミャンマー国際支援機構【MIAO】というNPO法人を立ち上げました。東京での展覧会実現のために、当法人もお力添えできれば幸いです。

カイン ぜひお願いしたいです。ところで、この【MIAO】は何と発音すればいいのですか(笑)

永杉 【ミャオ】と読んでいただいています。ミャンマーの人道支援や民主化活動をしている団体をサポートする目的で設立しましたので、WARTに限らずさまざまなことで支援させていただきたいです。本日は休日にも関わらず、またお忙しい中ありがとうございました。今後益々のご活躍をお祈りしております。

永杉 豊 [Nagasugi Yutaka]

MJIホールディングス代表取締役
NPO法人ミャンマー国際支援機構代表理事

学生時代に起業、その後ロサンゼルス、上海、ヤンゴンに移住し現地法人を設立。2013年6月より日本及びミャンマーで情報誌「MYANMAR JAPON」を発行、ミャンマーニュースサイト「MYANMAR JAPONオンライン」とともに両メディアの統括編集長も務める。(一社)日本ミャンマー友好協会副会長、(公社)日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、UMFCCI(ミャンマー商工会議所連盟)、ヤンゴンロータリークラブに所属。近著に『ミャンマー危機 選択を迫られる日本』(扶桑社)。

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