【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

<2016年12月号>NPO 法人ミャンマー・ファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)代表理事 名知仁子氏

今回のテーマ巡回診療と菜園指導を通じてミャンマー医療に貢献

聴診器だけで診察し、治療することは難しいが〝人間〟をどうやって診るかは医療の原点

名知仁子 氏[NACHI SATOKO]

1963年生まれ。1988年獨協医科大学を卒業後、日本医科大学付属病院第一内科医局入局。2002年、国境なき医師団に入団し、同年タイ・メーソートの難民キャンプ、2004年からはミャンマー・ラカイン州で医療支援に携わる。また、2003年には外務省のODA 団体、ジャパン・プラットフォームの要請で、イラク戦争で難民となったクルド人の医療支援に参加。2008年には、サイクロンで被災したミャンマーのデルタ地域で緊急医療援助に参加する。同年、任意団体ミャンマークリニック菜園開設基金を設立し、2012年6月にNPO法人ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会(現MFCG)設立、現職。

導かれるようにしてミャンマーへ

永杉 本日はお忙しいところお時間をいただきありがとうございます。名知先生は、ミャンマーで巡回診療のボランティアをされているということで、特にミャンマーの地方でお名前を伺いますが、なぜミャンマーで医療活動を始められたのですか。

名知 これはご縁としか言いようがありません。1988年に医師免許を取得してから、大学病院の循環器内科で11年間働いていました。しかし、2002年に国境なき医師団に入団し、タイ-ミャンマー国境のタイ側の町・メーソートに派遣されたのです。ミャンマーから逃れてきたカレン族の難民キャンプがあり、約3万5000人のカレン族が身を寄せていました。当時はミャンマーのことをよく知らず、キャンプ内で診察をしていただけだったのですが、ある日、何気なしに事務所から15分くらいのところにある川に行きました。タイとミャンマーとの国境だったのですが、両国の関係が悪く、あいにくゲートは閉鎖。タイ側には憲兵が待ち構えているのですが、カレン族は川を渡ってタイに入ってきていました。しかしそのような状況でも、ミャンマー側には灯りが見えました。明るくていいなというのが、ミャンマーの最初の印象です。

永杉 明るいミャンマーのイメージ、それからミャンマーの医療活動に関わるようになっていったのですか。

名知 すぐにというわけではありません。帰国した2003年3月からは、外務省のODA 団体、ジャパン・プラットフォームの要請でヨルダンに飛び、 イラク戦争で難民になったクルド人の医療支援をしました。
初めてミャンマーに足を踏み入れたのは翌2004年です。再び国境なき医師団に参加し、バングラデシュと接するラカイン州でロヒンギャ族の医療支援をしました。でもその時は、タイから見たミャンマーと同じイメージには結びつきませんでした。ラカイン州には何もなく、街がとても暗く感じたからです。

研究ありきの大学病院を飛び出す
ボランティアの世界へ

永杉 日本では高額な給与がもらえ、社会的にも経済的にも恵まれる病院で働かず、なぜボランティアに身を置くのでしょうか。

名知 いまは医療システムが変わったのでそのようなことありませんが、私が医師になった当時は、出身大学の大学病院で勤務する医師が主流でした。しかし私は、出身大学とは異なる日本医科大学の病院に入りました。外部から入ると、壁があります。女医は少ないし、日本の有名なTV ドラマ『白い巨塔』のような世界があり、同じ医局内にも派閥があったのです。

永杉 羨望や嫉妬が渦巻く当時の大学病院で、つまらない派閥争いなんかに巻き込まれたくない、それでボランティアを志すようになったわけですね。

名知 理由はそれだけではありません。大学病院は重症度の高い救急患者まで診るので、研究ありきです。そのようにしなければ医学が進歩しないからなのです。しかし私は、病気だけ診ていて人を診ていないのではないかと、診療をしながら感じたのです。研究の名目でたくさん薬を処方することが、果たしていいのことなのか。病気はその人間の中の一部です。コミュニケーションを取り、患者さん自体が病気を理解しなければ、一時的には治っても、また元に戻るのではないかと思ったのです。

医療支援
啓蒙活動が何より重要

永杉 ラカイン州でのプロジェクトが終了してからはどうされたんですか。

名知 帰国してからは、ふと思い立ってミャンマー語を習い始めました。高田馬場の学校に通っていたのですが、やがて同じ教室で、在日ミャンマー人に日本語を教えるボランティアを始めます。初級を教えていると、日本に10年も住んでいるのに日本語を全く話せないミャンマー人がいました。普段は、働いている店と家の往復だけで日本語を勉強する機会がない。頭部にかゆみを感じられていたので、シャンプーを替えるよう勧めたのですが、どうやって店の人に聞いていいかがわからない、という状況だったのです。いつもお世話になっているミャンマー人のためになるなら、という考えで私が日本にいる間は無料健康相談会を開いたのです。

永杉 その活動が、後のNPO 法人になるわけですね。ボランティアは収入も限られ、肉体的にもきつい部分があると思うのですが、その原動力は何でしょうか。

名知 私は人間をどのように診るかということは、医療の原点だと思うのです。現場を知っているということが大きいのではないかと思います。聴診器だけが頼りで、レントゲンもCT も何もない状況で診断し、治療することは難しいけれど、とても大切なことです。
その一方で、診られないものは診られないという現実もあります。以前、こんなことがありました。お母さんが抱いている赤ちゃんが呼吸困難で、聴診器を当てるまでもなく見るからに悪い。通常は、その状態になるまで放っておかないのですが、お母さんに知識がないから、重病だということがわからなかったのです。助からないだろうと思いながら病院へ搬送したのですが、やはり亡くなりました。日本だったら治療を受けて、生きられたかもしれないのに、あまりにも簡単な理由で亡くなってしまうことに無念さと悔しさを感じました。二度とこういうことが起きないようにするためには、お母さんへの教育が必要だと自覚したのです。

永杉 その現場での体験が、ボランティアへと衝き動かすわけですね。現在は、具体的にどのような活動をされているのでしょうか。

名知 今は1年のうちの9か月くらいはミャンマーに滞在し、デルタ地域をベースに医療と食生活改善のための菜園支援と二つの事業を展開しています。医療は巡回診療に加え、手洗いや歯ブラシの使い方、トイレの必要性などを教える保健衛生指導を行っています。菜園支援は、無農薬による有機栽培の方法を指導しています。野菜の甘みが強くなるので、近隣の住民も購入するようになり、地域農民の収入アップにも貢献しています。

永杉 古くから日本に伝わる、医食同源の考え方が根本にあるんですね。

名知 はい。それはなぜかというと、私の体験上、栄養不良の患者さんを診るプロジェクトがあったのですが、栄養プログラムにはいり、治療すると少しずつ体重が増えます。2、3か月後には適正体重になり、笑顔もみられ元気になります。しかし村に帰すと、また栄養不良に戻ってしまう。医師として不甲斐ない思いでした。この原因は二つあります。ひとつは村に食べ物がない。もうひとつは、食べ物はあるが、食べ方を知らないのです。栄養は、タンパク質と炭水化物、ビタミンがバランスよく含まれることで健康に作用します。そのような観点からも、菜園を支援することが重要だと思ったのです。

永杉 これまでの活動でたくさんの患者さんを診察されたと思いますが、感動したことはありますか。

名知 医療支援に行ったときのことです。患者さんの病状と私たちが施術できることにギャップがありすぎて、何もできなく、亡くなった患者さんがいました。しかし、そのご家族の方が最後に言った言葉は「来てくれてありがとう」でした。私はご家族の前で泣いてしまいました。もし、私が反対の立場だったら、感謝の言葉をかけられるだろうかと。ミャンマー人の心の広さ、感謝の心には感銘すら受けました。

永杉 医療の現場ではさまざまな人間ドラマが繰り広げられていることと思います。これからもミャンマー医療に貢献するためのご活躍を心よりお祈り申し上げます。

永杉 豊[NAGASUGI YUTAKA]

MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO
MYANMAR JAPON および英語・緬語情報誌MYANMAR JAPON +plus 発行人。日緬ビジネスに精通する経済ジャーナリストとして、ミャンマー政府の主要閣僚や来緬した日本の政府要人などと誌面で対談している。独自取材による多彩な情報を多視点で俯瞰、ミャンマーのビジネス支援や投資アドバイスも務める。ヤンゴン和僑会代表、一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員。