前駐ミャンマー大使・丸山市郎氏 書き下ろし
ミャンマーと日本─私の外交官人生

第2回:ネ・ウイン政権の誕生

―ミャンマーでの語学留学

 私は1978年に外務省に入省し、翌79年にビルマ語研修のため初めてラングーン(現・ヤンゴン)の地を踏みました。真っ暗な空港に降り立ち、国営のタマダホテルに宿泊しました(現在は民間の「ホテルG」になっています)。

 部屋に入ると裸電球一つで薄暗く、各部屋にはクーラーが付いていたのですが、大きな音と振動が激しいだけで全く冷えないものでした。何もしなくても汗が噴き出し、これからの2年間を無事に過ごせるのかと不安になったことを鮮明に覚えています。

 当時のビルマは、1962年に国軍がクーデターで政権を取ったネ・ウインの時代であり、これは1988年の民主化運動まで26年間続きました。ネ・ウイン政権は「鎖国主義」とも言える政策を取り、外国との接触を厳しく制限していました。「ラングーン外国語学院(現・ヤンゴン外国語大学)で語学研修を受けることになりましたが、私のほかには外国の留学生は政府派遣のロシア人が一人いるだけでした。また、ミャンマー人学生との接触が出来ないようにするため、「外国語学院」の授業終了後に学生が誰もいない校舎で一人先生と向き合う個人授業が2年間続いたのです。

―ネ・ウイン政権と国有化
 ネ・ウイン政権での政策で、最も国民生活に深刻な影響を与えたのは経済政策でした。「ビルマ式社会主義」政策の下、流通や貿易、商工業など農業を除く全ての経済活動の国有化を進めていました。農民からはコメの一定量を政府価格で強制的に供出させ、輸出で得た外貨により国営企業で製造業を営むという考え方です。当然、経済は激しく停滞し深刻な品不足に陥ります。

 農民は安い価格で政府に強制的に買い取られるのを避けるため、コメの生産量を実際よりも低く申告し、価格の高い「民間市場(と言っても、いわゆる「闇市」ですが)」に売ることが常態化していきます。

 一方、軍人が経営する国営企業にまもとな生産活動が出来るわけはなく、原材料の不足もあり非常に低品質な物資が細々と生産されることになります。そのため、当時はトイレットペーパーをはじめ、あらゆる日常生活用品を入手することがとても困難で、時折タイの国境からの密輸品を闇市で入手しなければならないという状況でした。

 我々外国人は、バンコクに行き日本食や生活用品を調達することが可能でした。しかし、パスポートの取得すら難しく外貨を持てないミャンマー人にとっては大変な時代だったと思います。この深刻な経済苦が1988年の民主化運動の大きな一因となったことは当然だと思います。

(続く)

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