友人も知り合いもいないミャンマーの地で10年活動して…

 このたび、私は「令和5年度男女共同参画社会づくり功労者内閣総理大臣表彰」を受賞させていただきました。この表彰は、実践的な活動を積み重ね、男女共同参画の推進に貢献された方を顕彰するもので、毎年11名が選ばれるそうです。改めてこれまで支えて下さった応援者の皆さまやメンバーの方々に心から感謝を申し上げます。

国際医療を目指すまで
 今年60歳を迎えましたが、そのうち21年間を国際医療と人道医療援助に捧げてまいりました。今でこそ、電車内の広告などで「青年海外協力隊」などが宣伝され、自分の体力や経験、知識を活用し、海外に貢献することは珍しくなくなりましたが、私がこの道を志したのは31歳。当時は国際医療自体がほとんど知られていませんでした。

 同僚や先輩からは「今まで培った10年ものキャリアを捨てるのか?」「馬鹿なやつだ」「絶対に後悔する」など、ケチョンケチョンに言われたことを今でも鮮明に覚えています。父からも行く末を案じて思い留まるよう何度も言われました。

 その5年後、大学病院を辞め希望の世界に飛び込もうとしました。しかし、賛同者が誰もいない状態が怖くなり、その1歩が踏み出せなかったのです。それでも「私もマザー・テレサのように現場で医師として働きたい」という思いは薄れることはなく、ついに37歳で大学病院を退職し、国際医療への道を歩き始めました。

 どの世界もそうだと思いますが、医療従事者の世界にも「10年やって一人前」という言葉があります。「石の上にも三年」の言葉通り、3年くらい継続してみると、なんとなく“こんな感じかな?”という感覚が養われていくように思います。その後5~8年目で後輩を指導できるくらいに成長し、10年を経て“さらにその上を目指す”という感じでないでしょうか?

 そのような想いで、11年間の大学病院での経験は決して無駄にはならないと考えていました。しかし、現実は甘くありませんでした。

手元にあるのは聴診器1本だけ!
 難民キャンプの現場はこれまでの現場とはかけ離れていました。文字通り何も無いのです。手元にあるのは聴診器1本だけ…。今まで医師として築いた自信は、初日に音を立てて崩れ落ちていきました。不甲斐ない自分の姿を見て「患者さんを診るとはどういうことか?」「自分には何ができるのか?」など自問自答の日々を過ごしました。本当に辛かったです。

 反対に、私のほうが難民キャンプの皆さんから多くのことを勉強させていただき「人間は無限大の可能性を持っているのだ」という強い確信を得たのです。「聴診器1本で人を診るということはどういうことか」ということを教えてもらったのも、この難民キャンプでした。それが私の医師としての原点になっています。あれから21年。還暦となるタイミングでこのような大きな賞を頂けたのは、信念と地道な継続によるもので、だからこそ応援してくださる仲間ができたのだと改めて嬉しくなりました。

 今、日本を含め世界中が大変な時代になっていますが、私たちは引き続きミャンマーの無医村で住民たちの自立(自律)をサポートしてまいります。

▲大野元裕埼玉県知事と
2023©MFCG

(2023年8月号掲載)

名知 仁子
[NACHI SATOKO]

1963年生まれ。1988年獨協医科大学を卒業後、日本医科大学付属病院第一内科医局入局。2002年、国境なき医師団に入団し、同年タイ・メーソートの難民キャンプ、2004年からはミャンマー・ラカイン州で医療支援に携わる。また、2003年には外務省のODA 団体、ジャパン・プラットフォームの要請で、イラク戦争で難民となったクルド人の医療支援に参加。2008年には、サイクロンで被災したミャンマーのデルタ地域で緊急医療援助に参加する。同年、任意団体ミャンマークリニック菜園開設基金を設立し、2012年6月にNPO法人ミャンマー ファミリー・クリニックと菜園の会(現MFCG)設立、現職。

ミャンマー ファミリー・クリニックと菜園の会:https://mfcg.or.jp/