【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

<2014年5月号>ミャンマー野球代表チーム 岩崎 亨 監督

今回のテーマ:元国連職員が蒔いた種、野球を通した教育とは

ミャンマー野球代表チーム監督
1955年、神奈川県横浜市生まれ。横浜市立大卒業後、通信コンサル会社、国際大学大学院を経て、世界保健機関(WHO)ニューヨーク事務所やアフリカ地域事務局へ。95年から国連薬物統制計画(UNDCP)ミャンマー事務所代表。98年に国連を辞職し、国際協力事業団(現国際協力機構・JICA)専門家として、ミャンマーを中心に東南アジア地域の薬物対策プロジェクトに従事。2000年ミャンマー初の野球指導を開始、02年「岩崎無双塾」を設立。現在はミャンマー野球連盟特別顧問の他、TMI 総合法律事務所ヤンゴンオフィス顧問、国際幼稚園「KHAYAY」運営など多岐に渡る。

ミャンマーの変革を見届ける原点は国連時代の体験から

永杉 本日はお忙しい中、お時間を頂戴しましてありがとうございます。早速ですが、まず国連、そしてミャンマーに関わりを持たれた経緯、その思いをお聞かせください。

岩崎 はい。まずは世界の舞台で公正中立な立場にたって仕事がしたいと、国連の仕事に就きました。1995年に国連薬物統制計画の駐在代表として、ミャンマーに足を踏み入れます。当時のミャンマーは「ゴールデントライアングル(※)」の一角で、世界2番目となる大規模なケシ生産国という位置付けがありました。そこで薬物対策を担当することになるのですが、具体的には、ケシを減反させるために政府の協力を仰ぎながら地域住民と武装勢力の説得を行い、他の作物への生産移行などを促し、結果的にはケシの作付面積を約50%まで抑えることができました。

リサーチ等の成果を認めてもらい、国連の後はJICA の「薬物撲滅プロジェクト」の立ち上げに参加し、ミャンマーとのつながりは深くなります。その後はタイにも派遣されますが、1年半後には戻ってきました。携わったプロジェクトの収束を見届けたい興味と、今までにいろいろな国を見てきた中でミャンマーがどう変貌していくのか、この目で見てみたいという気持ちがあり、家族そろってミャンマー生活を決めたのです。

※: ミャンマー東部シャン州からタイ、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯。「黄金の三角地帯」と呼ばれ、栽培するケシは麻薬の原料にもなる。
人間として成長すれば野球は絶対うまくなる

永杉 ミャンマーに多大な貢献をされてきたわけですね。では、野球との関わりはいつ頃からなのでしょうか。またミャンマー人を指導するにあたり、大切にしている心構えはありますか。

岩崎 2000年、唐突に「ミャンマーに野球連盟を作り、そのためのチームを指導してほしい」という依頼がありました。野球の存在しない国で野球を教えるなんて思いもよりませんでした。ただ、国民的スポーツであるサッカーは厳しい競争があり、選手の優劣も最初からハッキリしますが、野球に関してはスタートラインが一緒。練習を積み重ねれば代表選手になれる可能性が高いのです。また、麻薬に手を出すミャンマーの若者の姿を見てきたこともあり、「夢を与えたい」「若い人が集まる場を作りたい」と思い、全く未知への挑戦ではありましたが、引き受けることにしました。

準備もゼロのため、まずは球場探しから始まり、グラウンド整備も手作業で行いました。メンバーを集めて繰り返しの練習。参加するミャンマー人は、初めこそは新しいスポーツに興味を持っていましたが、そこから意欲をどう持続させるかが大事です。常に社会や経済状況に左右され、家庭環境が原因で心の安定が保てない選手もいました。妻と一緒に毎日が試行錯誤の連続でした。

指導という面から見たミャンマー人の難しさは、柔軟性や融通に欠ける部分です。原因は教育。マニュアル的な詰め込み教育のために、創造性が生まれません。言われたことはできても、自分で考えて次に進むことがなかなかできないのです。これは、野球では大事な要素です。ルールやボールの投げ方を知っているだけでは駄目。周りへの観察力や応用力がないと、試合には通用しない。そういう感覚は実生活でも、仕事においても必要です。社会で通用する人間を育てるために、野球を通じてヒントを与えたいのです。人間として成長すれば、野球は絶対うまくなるという信念があります。

日本の野球界にミャンマー人選手

ミャンマー現地のみならず、日本からも資金や物資など多くの支援を受けている。縁のあった四国アイランドリーグの鍵山誠CEO の応援を受け、2013年6月に「香川オリーブガイナーズ」に教え子ゾーゾー・ウー投手が入団。ミャンマー人初の日本での野球選手が誕生した。
現在[2014年3月末時点]も活躍中で、ミャンマー国際航空(MAI)が協賛。

ゼロからミャンマーに野球を 青少年育成に力を注ぐ日本人監督――

ミャンマーの人材育成へ
環境づくりに家族で尽力

永杉 ミャンマー球児たちとのドラマは著書『ミャンマー裸足の球児たち―元国連職員が蒔いた一粒の種』(アットワークス刊)を読むとよくわかります。ヤンゴンで生活していると、本文に出てくるミャンマー男子たちの言動と、岩崎さんのご苦労がとてもよく理解できます(笑)。
野球とは別に、塾や幼稚園を運営されていますが、若者の教育につながる一環としての取り組みなのでしょうか。

岩崎 そうですね。まず2002年に「岩崎無双塾」を設立しました。将来に夢を持って生きる大人を育成するために開始し、現在も、非営利団体として、幼児教育の支援事業およびIMI ベースボールクラブ運営組織として存続しています。また、ミャンマーには幼児教育の専門家がいないため、04年には日本の幼稚園の支援も受け、ボランティア組織の教員養成センターを設立しました。

そして2008年には、「KHAYAY(カエイ)」国際幼稚園を作りました。文献等でみても創造性や独創性を身につけさせるのは、脳の仕組みでは2歳~6歳まで。ミャンマーの学校の授業にない芸術、音楽、5カ国語教育などを取り入れて潜在的な力を伸ばす早期教育を継続中です。妻を園長に、現在は長女と次女が教員として頑張っています。

平和の象徴 野球"を通じて日ミャンマーの交流促進へ

永杉 多様性に適応できる子どもたちが育ちますね、楽しみです。私も「バイカルチュアル」な教育の重要性を感じています。 最後に、長くミャンマーに携わる日本人として現在や、今後の野球への思いをお聞かせください。

岩崎 両国の交流はますます広がっていくでしょう。ミャンマー人は人を許せるという感覚を持つ優れた民族ですから、非常によい人材に成長していくと思います。歴史的に見る負の背景も日本人は理解しながら、相互理解の上で関係を強化していくことが必要です。

野球は平和の象徴だと思うんです。2005年夏に合宿の一環でミャンマーチームのメンバーを甲子園に連れて行くことができましたが、平和だからこそ野球ができるとつくづく思いますね。ミャンマーの若者たちとともに、努力を積み重ね、今後も野球を通じて多くのメッセージを伝え届けたいです。

永杉 野球の指導も含めたミャンマーにおける若者教育への熱い思いが伝わりました。これからも教育とミャンマー野球界への支援、日本とミャンマーの友好関係の推進にご尽力を頂き、ご活躍ください。

「KHAYAY」国際幼稚園には、ミャンマー人が4割、18カ国の子どもが通う。「最近拡張しましたが、待機児童が60人ほど出ており、早く体制を整えていきたい」と岩崎さん。今後は要望の多い小学校の併設も検討中だという。

MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO
ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON BUSINESS」、「MJビジネスバンコク版」、ヤンゴン生活情報誌「ミャンジャポ!」など4誌の発行人。英語・緬語ビジネス情報誌「MYANMAR JAPON+plus」はミャンマー国際航空など3社の機内誌としても有名。日本ブランドの展示・販売プロジェクト「The JAPAN BRAND」ではTV番組を持つ。ミャンマーの政財界や日本政府要人に豊富な人脈を持ち、ビジネス支援や投資アドバイスも務める。 一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員、WAOJE(旧和僑会)ヤンゴン代表。