親日ミャンマー人が現地で経験した2度目のクーデター

(26)日本への期待、ミャンマー再建に向けて

 ミャンマーと日本は戦前から深い交流があった。ミャンマーの独立に貢献してくれたわけだが、戦後になると日本も敗戦によって自国の立て直しに注力し、交流は途絶えた。戦後賠償金や国交正常化などの政治的な動きはあったが、民間での交流は進まなかった。

 1962年以降、ミャンマーは社会主義、日本は民主主義であり、政治的な関係も決して良好とはいえず、互いの情報も理解していなかったと思う。ミャンマー側は日本映画、日本製の自動車と電化製品が流通していたのでまだマシだったが、日本は「ビルマの竪琴」くらいしかミャンマーのことは知られてなかっただろう。

 1988年のクーデターで軍政が誕生し、国際社会から経済制裁を受け、日本は特別措置的に交流はあったが、公式に官民で交流を持つことはできなかった。ミャンマーに通ずる日本人の要人も軍関係者が多く、そもそも人も少なかった。

 ミャンマーからは軍の圧政に耐えられず、若者が大量に海外に逃亡し、日本に難民や留学生、出稼ぎ労働者が増え、一般レベルでの交流が始まっていった。私もそのような人材の一人である。

 その頃から両国に少しずつ情報が増え出し、民間同士の関心も高まっていった記憶がある。その後、民主化したことで交流は一気に広がり、これからよくなっていこうとするときに再び今回のクーデターが起きてしまった。

 ミャンマーは社会主義時代から政治家が育たず、もちろん軍政になってもそうした環境は整っていない。日本に入ってくる情報もミャンマーの軍幹部の一方的なものしかなかったはずだ。だから日本側の担当も国軍の都合のいい情報ばかりを鵜呑みにしていた可能性があり、今もまだ“ミャンマーとの太いパイプ”といった人物が挙げられるときは、当時からつながりのある年配者となっている。ミャンマー国民からすると、それは軍を甘く見過ぎで、国軍の過剰ともいえる自己防衛、自作自演を見過ごしてしまっている。

 国軍は5~60年、保身のための基盤を強固にしてきた。軍以外は国を運営できないと信じ、民間の政治家が台頭することを拒んできた。当然それはミャンマーの民主化を阻害することであり、ミャンマーという国の成長も阻むこととなる。だからこそ、アジアの中で最も信頼できる民主主義国家の日本が、ミャンマーの政治家との交流を通じ、政治家を育成してもらいたかったし、民間でも互いに支援できる環境づくりを期待していた。そうした思いは今も変わらない。

 ミャンマーの真の経済発展のために、日本から学ぶことはたくさんあり、現在依存している第一次産業からの脱却が必要。とはいえ、世界の市場に打って出るには相当時間がかかることは間違いなく、日本の経済的支援なくしては、ミャンマーの貧困化は止まらないと思う。

 技術面、資金面、市場の開拓がミャンマーには必要であり、日本と戦略的な経済圏を構築できれば、両国にとってもメリットは大きいはず。現在は厳しい状況だが、再び民主化すれば日本との交流がミャンマーの貧富の格差をなくし、官民挙げてのビジネスにはチャンスが生まれる。

 ミャンマーは数十年間鎖国状態であり、教育、ビジネスでの環境は遅れており、現代向きに整備されていない。製造業は少なく、モノづくり、人材育成が脆弱であるといわざるを得ない。国際競争力はなく、日本の教育環境を官民でミャンマーに導入していきたいと思っている。

 ミャンマーの若者たちを留学生、教育実習生、特定技能などで日本に派遣できる体制をさらに進め、そうした人材がミャンマーに戻ってきたときに母国に貢献できると信じてやまない。

 ミャンマーの再建のためにも日本の役割は大きい。民間同士で交流を深めていきたいし、日本の皆さんにも呼びかけたい。ミャンマーの再建のためにこれからも精進したいと思う。

(続く)

Bandee
1965年、ヤンゴン市生まれ。88年、ヤンゴン大学在学中に8888民主化運動に参加。91年に日本に留学し、語学を学ぶ。2004年にミャンマーに帰国後、ボランティアの日本語講師となる。現在は主に人材派遣の育成プログラムを作成し、教育事業を行っている