【TOP対談】ミャンマーの先輩に問う!

MYANMAR JAPON代表の永杉が日本・ミャンマーの第一線で活躍するリーダーと対談し、"現代ミャンマー"の実相に迫ります。

<2016年11月号>シュエ・タン・ルイン社 社長 テット・ウィン 氏

今回のテーマ日緬の友好関係を築いた元外交官

日本とミャンマーの友好を深めていくことが自分の責務

テット・ウィン 氏[THET WIN]

シュエ・タン・ルイン社 社長
1944年生まれ。ヤンゴン大学卒。1967年、 People's Oil Industryで古生物学を研究。1968年、Department of Medical Research(DMR)でウイルス専門研究員。1990年、外務省に入り、在日本ミャンマー大使館で一等書記官、参事官、在オーストラリアミャンマー大使館領事などを歴任。2012年から現職。国際関係に詳しく、大の知日派としても知られる。

学者として来日
旧日本兵がミャンマー人に感謝

永杉 本日はお忙しいところ、お時間を頂きありがとうございます。元在日本ミャンマー大使館の参事官で、大の知日派として知られていますが、日本との関わりはいつごろから始まったのでしょうか。

テット・ウィン 私は1973年、現在の国際協力機構(JICA)の前身である海外技術協力事業団(OTCA)から奨学金をもらい、来日してからは1年間トラコーマ(伝染性の慢性角結膜炎)の研究、その後京都大学などでデング熱を研究しました。

永杉 来日されたのは、政府の研究者としてなのですね。その後、ミャンマーの外交官として活躍されるのですが、その転身のきっかけは何だったのでしょうか。

テット・ウィン 私が研究者だったときに、日本遺族会の方々と岩手に行く機会がありました。そこで元日本兵の引揚者が私を見て、「ビルマ人を久々に見た」といって駆け寄ってきたのです。よく見ると、彼の口は銃弾で貫通されています。英兵に殺されそうになった時にビルマ人に助けられたそうです。さらにもう一人、私に駆け寄ってきた元兵隊は足に銃弾を受けた傷を負っていましたが、その方もビルマ人に助けられたそうです。年配のお二人は私に対し、何度も何度も「助けてくれてありがとう」と涙を流しながらお礼を言ってくださいました。私は、ビルマ人にこれほどまでに感謝してくれるのかと思い、その方たちと一緒に大泣きしてしまいました。そして両国間の友好関係を深めていくことが自分の責務だと確信したのです。その後、研究者から外交官へと転職しました。
麻薬撲滅に尽力

永杉 日本のミャンマー大使館勤務時代は、どのようなことを任務とされていたのでしょうか。

テット・ウィン いろいろな仕事がありましたが、中でも力を入れたのがミャンマーの麻薬撲滅です。当時の加藤紘一衆議院議員とミャンマーのキン・ニュン第一書記が協力して、麻薬撲滅のための代替作物としてソバ栽培を奨励するプロジェクトに取り組んだのです。お二人とはご一緒にソバを栽培している現地までヘリコプターで視察にも行きました。先日、加藤紘一氏がお亡くなりになったとの訃報を聞いて、非常に残念に思いました。
カカボラジ山初登頂のきっかけ
頂上に3か国の国旗

永杉 大使館では相手国政府との交渉、政治・経済その他の情報を収集、分析をされていたと思いますが、参事官時代でなにか思い出に残るお話はありますか。

テット・ウィン ある時、外交官仲間でフランス大使館に勤める女性外交官から「ミャンマーで川渡りの象を見たい」という相談がありました。その方と話していると、ご主人はエベレストにも登頂した著名な登山家ということがわかりました。ミャンマーの最北端にはカカボラジという未踏峰の山があるので、それに挑戦したらどうかと提案しました。女性外交官はその場でご主人に電話をしたところ、「その山に登ることができたら、いつ死んでもいい」という返事でした。私はさっそく本国に連絡し、コーディネートをしたのです。そうです(笑)、その方が1996年、カカボラジ山初登頂を成功させ、その功績で第1回植村直己冒険賞を受賞された尾崎隆さんでした。尾崎さんによってカカボラジの山頂に、日本、ミャンマー、フランスの3か国の国旗が並んで掲げられたのです。ミャンマーの最高峰を日本人に初登頂させたことが私の誇りとなっています。

「おしん」が大人気
日本のTV番組で友好

永杉 次にビジネスのことをお伺いします。現在、ミャンマーの財閥シュエ・タン・ルイングループの国際関係部門の代表をされていますが、同グループはどのように日本企業と関係を持たれていますか。

テット・ウィン 日本の企業の中で、私たちはセコムと合弁会社を設立しました。安全と安心を提供する警備会社のセコムと提携することができたのは、シュエ・タン・ルインとしても日本企業と関係を築いていく中での大きな一歩だったと思います。

永杉 同グループは傘下にスカイネットやミャンマーナショナルテレビ(MNTV)というメディア部門を持っています。日本の番組コンテンツとの関わりはいかがでしょうか。

テット・ウィン 私が若いころは、ミャンマーでも日本の番組をよく見ていました。特にNHKの「おしん」が大人気で、外出していても「おしん」が放映される時間になるとみんな家に帰って見ていました。しかし1988年以降、日本とミャンマーの関係が疎遠になった時に、韓国ドラマがミャンマーに入ってきました。若者たちは韓国のライフスタイルにあこがれを持つようになったのです。私は、日本の番組をミャンマーに戻したいという強い気持ちがあり、NHKの「龍馬伝」や「カーネーション」などのドラマをミャンマーで放映しました。これはビジネスを越えて、日本とミャンマーの友好関係を深めたいという目的があったからです。NHKの大河ドラマや朝ドラはMNTVのプライムタイムで放映されているので、ミャンマー人の多くが見ています。

永杉 2014年に日本とミャンマーの外交関係樹立60年を記念して「ジャパン・ミャンマー・プエドー」というイベントが開催されました。今年も行われましたが、MNTVがNHKといっしょに会場を盛り上げていましたね。

テット・ウィン ジャパン・ミャンマー・プエドーは、MNTVが生放送で全国に流しました。日本とミャンマーの友好イベントをプライムタイムで全国に放映できたことは、韓国ドラマに影響を受けた若者たちに、日本をよりよく知ってもらえたという大きな意義がありました。

永杉 中国や韓国がミャンマーに影響力を持っている中で、日本は今後、どのようにしたらミャンマーに受け入れられていくのでしょうか。

テット・ウィン アウン・サン将軍が日本に行って軍事訓練を受けたことなどを見ても、日本とミャンマーは昔から深い関係で結ばれています。他の国はゼロからミャンマーとの関係を築いていかなければなりません。しかも、ミャンマー人は日本人のことが好きですし、すでに日本とミャンマーの友好は基盤ができています。ですから日本がもう一歩、踏み出して入ってきてくれればうまくいくと思います。

永杉 ところで、毎日お忙しいと思いますが、ご家族とはどのように過ごされていますか。

テット・ウィン 私は今年で72歳になりましたが、休日は日曜日だけです。長い間、日本で教育や仕事をしたせいか、昔の日本式のように家族よりも仕事が大事だと思ってしまいます。国のためになるならば、まだまだ仕事を優先させていきたいです。

永杉 本日はとても心に響くお話しをお聞かせ頂きありがとうございました。これからもご健康とますますのご活躍を祈念しております。

永杉 豊[NAGASUGI YUTAKA]

MYANMAR JAPON CO., LTD. CEO
MYANMAR JAPON および英語・緬語情報誌MYANMAR JAPON +plus 発行人。日緬ビジネスに精通する経済ジャーナリストとして、ミャンマー政府の主要閣僚や来緬した日本の政府要人などと誌面で対談している。独自取材による多彩な情報を多視点で俯瞰、ミャンマーのビジネス支援や投資アドバイスも務める。ヤンゴン和僑会代表、一般社団法人日本ミャンマー友好協会副会長、公益社団法人日本ニュービジネス協議会連合会特別委員。