【特集1】[戦後70年特別企画]軍票の謎を追え!

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【特集1】[戦後70年特別企画]軍票の謎を追え!

 「日本のソルジャーマネーをあげる」。ミャンマー人の若者にこう切り出され、何のことかわからないまま3枚の100ルピー札を受け取った。大きな「ジャパニーズガバメント」という英字に加え、漢字で「大日本帝国政府」とある。いわゆる軍票を目にしたのはこの時が初めてだった。

 ヤンゴンにいると、しばしば日本の軍票に出会う。「日本のお金が本物か確認してほしい」と頼まれ見てみると、やはり軍票だった。ボージョーマーケット付近では、100ルピーから1セントまで9種類の軍票の綴りが数ドルで買える。
そうするうちに、ふつふつと疑問がわいてきた。この軍票はどこからどうやってやってきたのか。また、どうしてミャンマーの人々はいまでも軍票を持っているのか。前述の若者が「家にはまだたくさんある」と話していたことを思い出した。 彼の実家は、小説「ビルマの竪琴」の舞台にもなったモーラミャイン近郊のムドン。夜行バスに乗り、実家を訪れた。

 「小さいころ、軍票をおままごとに使っていた記憶があります。青いお札、赤いお札、それから少し小さいサイズのお札があったと思います。大きなビスケットの缶いっぱいに、軍票が詰まっていました」 戦後生まれの彼の母親は、軍票をおもちゃとして使っていたと振り返った。曽祖父の時代から菓子店を営んでいる家族は、当時の日本軍にドライフルーツなどをよく売りに行っていたそうだ。
 紙くずとなった軍票を曽祖父が保管していた理由を問うと、母親は「後々お土産品として売れると思ったのではないでしょうか」と答えた。終戦直後の混乱期に、将来日本人観光客がやってくることまで予想できたのかと釈然としないものを感じた。 長いこと保管していた軍票の束は2〜3年前に建てられたムドンの美術館に寄付したそうだ。それでもまだ残っていた3枚の100ルピー札を取材の最後に筆者に手渡した。


引き取り手のいない軍票

終戦後、外地から引き揚げてきた人たちの玄関口であった横浜税関。そこにはアジア各地の軍票のほか、満州鉄道の株券などが現在も保管されている。当時、GHQの指示により引揚者の財産の持ち込み制限がされ、横浜税関発行の引換証と交換で預けさせられた。引揚者たちが軍票をどんな思いで持ち帰ったのかはわからないが、今この財産を引き取りに来る人はいない。それでも、横浜税関はこれらの証券類の保管を続け、8月には紙の劣化防止のためにこれらを金庫から出して虫干しをすることが恒例となっている。

 1941年以降、日本軍は蘭領インドネシアではグルテン、米領フィリピンではペソ、英領太平洋地域ではポンドなどの軍票を発行した。当時は日本に限らず各国が軍票を発行していた。軍票は、現地で雇用した労働者の賃金や、購入した物資の支払いに使われた。そしてビルマの人々の財産だった軍票は、日本の敗戦とともに紙くずとなった。ラングーン(現ヤンゴン)では、日本軍の撤退と同時に、街中に軍票がばら撒かれたという記録がある。

 次に向かったのは、モーラミャイン近郊のトーク村。ある寺院で戦前から地元で暮らす88歳の高僧の話を聞くことができた。終戦時には18歳で、その後出家したという。「私は日本人と一緒に働いていました。日本軍のために火薬工場で働いていました。お金は働くたびにもらえました」。高僧はモン語でゆっくりと答えた。もちろん、その時の賃金は軍票で支払われたという。
 日本軍敗戦後、持っていた軍票の一部は、現地の顔役を介してなんとか両替ができたが、一部は軍票のまま残った。換えられなかった分は人にあげたのだという。
 「日本軍がまた戻って来ると思っていた人は多かったと思います」。どうして終戦後も軍票を持っていた人がいるのかと聞くと、高僧はそう答えた。「そのころ、イギリス人が日本は負けたという噂を流していました。ラジオなどでも流れてきました」。現地では信頼に値する情報源はどこにもなかったのだろう。日本軍が戻って来ることを予想して、軍票を安値で買い集める人すらいたそうだ。

  こうして捨てられることのなかった軍票は今でも、ミャンマー人の家の片隅に眠っている。日本軍は戻って来ることはなかったが、70年の時を経て日本企業が多額のジャパンマネーをミャンマーに投資していることには、何かの縁があるのかもしれない。


Q:どうして日本はビルマで戦争したの?

 日中戦争が泥沼化した1940年ごろになると日本軍は、蒋介石率いる中国国民党を支援する連合国軍の「援蒋ルート」を遮断して、中国を孤立させる作戦を考えたんだ。そのひとつが英領ビルマから雲南省に抜けるルートだったため、太平洋戦争開戦直後の1941年12月にタイ側からビルマに侵攻した。英国軍があまり抵抗をせずにインドに撤退したから、日本軍はあっという間にラングーンなどビルマの大部分を占領したのだけど、その後連合国軍の反攻を受けてラングーンから撤退したんだ。

Q:日本がビルマ独立を後押ししたって本当?

 そうだね。日本軍は鈴木敬司大佐率いる南機関が、ビルマで独立運動をしていた青年アウン・サンら30人に軍事訓練を施して、ビルマ独立軍を組織したんだ。1942年3月に日本軍に続いてラングーンに入ったビルマ独立軍は市民の熱狂的歓迎を受けた。ただその後の1943年8月にビルマは日本占領下で独立を宣言するのだけど、外交権がないなど実質的には日本の支配下に置かれていたから、ビルマ側には不満があったんだ。

 インドの英国軍拠点を攻撃した「インパール作戦」が失敗して日本の劣勢が決定的になると、当時国防大臣だったアウン・サンは反旗を翻し、英国と手を組んで日本軍を撃退した。終戦後の1948年1月、ビルマは改めて英国から分離して、独立国となったんだ。

Q:戦争だから悲惨なこともあったのでしょう?

 ビルマ戦線では、インパール作戦や「ミイトキーナ(カチン州ミッチーナ)の戦い」などの激戦に加え、疫病や食料不足で日本軍の状況は凄惨を極めた。およそ19万人の日本軍将兵が命を落としたとされているよ。今でも日本の民間団体が遺骨の収集を続けているんだ。もちろん英国軍や中国国民党軍など連合国側や、両陣営の激しい空襲にさらされたビルマ市民にも多くの犠牲者が出ている。

 戦闘以外での被害も大きかった。中でも泰緬鉄道の建設では、人力による突貫工事をおこなったため、徴用されたビルマ人労働者や連合国軍の捕虜など10万人以上が死亡した。また、3年間の日本軍占領下の統治も厳しく、憲兵隊がスパイと疑った市民を拷問にかけたことから、ミャンマー語には「キンペイタイン(憲兵隊)」という言葉が残っているほどなんだ。また、日本は大量の軍票を発行したのでハイパーインフレとなった。交通網も破壊され、経済的にも大きなダメージを受けたんだ。

参考文献:物語ビルマの歴史(根本敬)、歴史物語ミャンマー(山口洋一)
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